
寂聴文学を愉しむ会 第5回「白い手袋の記憶」「痛い靴」を読む。その②
2月21日に開催された会の後半です。
瀬戸内晴美 作「白い手袋の記憶」(1957年4月刊『白い手袋の記憶』収録)
1957年「Z」3月号に掲載。4月、この作品を入れて全9作が、著者の第一短編集『白い手袋の記憶』として朋文社より刊行。「女子大生・曲愛玲」が新潮社同人雑誌賞を受賞したことが弾みとなり、初めての著書刊行となった。
私のなかで「白い手袋」は、意識下で「式」につながる。小学生の頃の式。卒業式、入学式、進級式。御真影が見下ろし、教育勅語が延々と続くなか、上体を折り曲げていなければならなかった。「神さまとは?」の答えに校長に頭を撫でられ、生真面目な優等生になった。女学校はスパルタ式で、授業中には千人針を縫った。朝礼には「愛国行進曲」、授業中、護国神社に砂利運びの奉仕作業。大東亜戦争突入、繰上げ卒業、結婚し北京に渡る。結婚時、モーニングに花婿の手に白い手袋が握られていた…。
戦後十年、「白い手袋の幻影」をなげうち、自分の靴でふみにじったその土の上に、自分の文学を打ち立てたい。戦中派である自らの今後の生き方・作家としての決意を表明したエッセイふうの作家論であり、文学論でもある。

参加者の意見
私の父が戦中派(大正8年~昭和3年に生まれ)世代だった。昨日までの価値観ががらりと変わり、大変だったでしょうね。寂聴さんも多感な時にそういった経験をされて、それがのちに自身の思想の芯になったのでは。後世に戦争を伝えていくという作家の本能を感じた。私たちも受け継いでいかねば。
戦後十年で、寂聴さんが自分の経験をもとに女性問題について書いているのがすごい!校長先生がつけている権力の象徴のような白い手袋。それを脱いだ手を見たときに感じた失望感、これが実体なんですね。
このエッセイの最後、「白い手袋の幻影をなげうち、じぶんの靴でふみにじったその土のうえに、じぶんの文学をうちたてたい」、と寂聴さんの宣言がある。その熱の熱さ!映画「風と共に去りぬ」でスカーレットが、死に物狂いで畑の人参を齧りながら「わたしはもう二度と飢えたりはしない!」と叫びながら誓うシーンを思わず思い出した。
読み始めは白い手袋って何だろう?って思っていたら戦争の話に入っていって。男性が戦場で戦うだけでなく、女性も惨めな戦禍へ。戦争に正義も正解もないですよね。間違ったことでも正解になる怖さ。惨い時代。現代に生まれたことの幸せを思います。
それまでに読んだ寂聴作品と違う、この文章からガラッと変わったような印象。生涯、作家として反戦、反権力の立場で物を書くという原点がこの作品でよくわかります。
「一たび、目のうろこをはがされたわたしは、もう決して、じぶんの目でみつめ、じぶんの手でふれ、じぶんの魂が感得したものでないかぎり、何物をも信じまいと決心した」という文章、私にとって寂聴作品を好きになったきっかけの文章。
私の両親も大正生まれ。戦争の経験を乗り越えて平凡な家庭を作った。母はいかにも“日本の母”のモデルみたいな人だったけれど、私が結婚するとき「結婚しても好きなことをしてもいいよ」と言ってくれた。母のこの一言が意外で驚いた。考えると、死ぬか生きるかを生き延びてきた両親だった。家庭を作って平凡に生きて…。でも心のなかでは、もしかしたら寂聴さんと同じような想いがあったのかも。表には出さなかったけれど。苦労したんだなって、思いました。
私の父は昭和7年生まれ。戦争中は、とにかく早く大きくなって兵隊さんになって戦う、と思っていたと。けれど戦争に負けてすべての価値観がひっくり返ってしまった。戦争の画一的な教育が、子どもたちをいかに思い通りにさせていくか、その怖さを思う。自分の愚かさを白状しない限り前へは進めない、という寂聴さんの決意を感じる。
このエッセイを読んで思い出したのは、同時代の作家、三島由紀夫の「金閣寺」。三島も幼少期から絶えず戦争が身近にあり、自分も死ぬものと思っていた。けれど生き延びてしまう。戦後社会とどう折り合いをつけて生きていき、小説家として立つのか、三島は苦悩し「金閣寺」を書いた。寂聴さんはどうだったか。ヴァージニア・ウルフの引用が印象的だった。ウルフの言動を自身のこれからの小説家としての指針にしたのでは。
私の父は昭和2年生まれ。兵隊になるための健康診断に高松へ行ったけれど、結核がわかり返されてしまった。そこから十年ほど療養していたのだそう。本人はものすごく戦争に行くつもりだったのに、あなたは体が駄目だ、と言われたと。二十代の青春を療養して過ごした。でも戦争に行かなかったから、いま私はここに居るんだなと実感。
この作品ではっきりしているのが、これは瀬戸内さんの生き方宣言であり、決意表明だということ。今回この会を通して初期作品を読んできた。その本の目次を見ると、一番最初に「女子大生・曲愛玲」ではじまって、いくつか作品が並び、最後にこの「白い手袋の記憶」が配置されている。その配置、順序の意味、そして重石のような最後のエッセイ。その意味をもう一度考えたい。