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本をたくさん読みたい。けど「たくさん読むだけ」でいいのだろうか。


死ぬまでに、たくさんの本を読みたいと思う。


この世のすべての本を読むことは、到底できないだろう。
でもせめて、自分が好きな本、好きそうな本との出会いを、少しでも逃さずにいられたら。


読書から離れた数年を経て、ひさしぶりに読書生活に舞い戻ってくると、たびたびそんなことを考えるようになった。

すこしでも多く。
すこしでも、いろんな本を手に入れて。
たくさんの本と出会って。
ああ、時間がぜんぜん足りないじゃないか。




又吉直樹さんの『月と散文』にも、こんなことが書いてあった。

本は、一度読んだら次は新しい本を読んで、生きているうちにできるだけたくさんの小説を読みたいんだというような人がいるとしたら、それは立派な動機ですし、部分的に強く共感します。「生きているうちにできるたけたくさんの小説を読みたい」という部分ですね。僕も同じです。それに一言だけ付け加えるなら、「面白い本を」という条件を足したいですね。

同書、p.


たしかに。
どうがんばっても、時間は有限なんだから。
楽しめない本に、時間もお金も費やしている場合じゃない。

だから、自分の審美眼を磨いて、自分にぴったりの本に出会えるよう、アンテナを高くして生きていなければならない。
それに、自分がその本の魅力を最大限に引き出して読めるよう努力するのも大事だと、又吉さんは語っていた。


◇◇◇



一方で、「たくさん読むだけでいいのか?」と、疑問がわいてくる。


たぶん、たくさん読めば、楽しいだろう。
時間があっという間に過ぎていくだろう。

でも、それだけだ。
「わたし」という人間は、なにも変わらないままになる。



青山南さん『本は眺めたり触ったりが楽しい』という本を読んでいる。
「多読」「ななめ読み」「遅読」など、あらゆる本の読み方、楽しみ方について、短いエピソードや誰かの話などが、ちょこちょこと語られておもしろい。
どこから読んでも、楽しめる一冊だ。


その中に、こんな文が紹介されている。
プルーストの言葉だそうだ。

読書とは読者への励ましなのだ。そして、励ましにしかすぎない。本を読んだからといって、なにかの答えが見つかるわけではない。本の作者の知恵が終わるところで、読者であるわたしたちの知恵が始まる。

同書、p,200


読書は、読者への「励まし」。
とても響く言い回しだ。

本そのものは、読み手になにかを与えてくれるわけではない。
そりゃ、ちょっとは新しい情報や斬新なアイディアをくれるかもしれないが。
読んで、そこから動き出すのは、自分だ。

となると、「たくさん読むだけ」では、ただ読書が励ます声だけを受けて、棒立ちしている人になってしまう。
それでいいのか。
それって、もったいない気がする。


本書ではさらにそこから、こう続く。

「読書を一つの規律としてしまうことは、励ましにしかすぎないものに課題な役割を与えることになる。読書は精神生活の入り口にあるものだ。私たちをそこへ導き入れることはできるが、精神生活を形成することはない」

同書、p200


この「読書は精神生活の入り口」というのに、とても納得した。
読書は、考えるきっかけ、場所、時間の入り口まで連れて行ってくれるけど、そこから先の答えを探すのは、自分しかいない。

「たくさん読んだ」からといって、多くの洞窟の入口に立って、それを眺めていて、どうする。
けっきょく、「読んでそれからどうするか」だ。



とはいうものの。
洞窟の前で棒立ちのまま、ぼうっとしていたいだけの時もある。
たくさん本を、言葉を、作者の声を、ただシャワーのように浴びていたい日が、わたしにはよくある。

だから、「読書はこう!」と、一概に言いきれない。
そこが、読書の奥深さだろうか。

読書の仕方は、人それぞれ。
ひとりにとっても、体調、気分、天気、場所、内容によって、ぜんぜん変わってくるのだから。

好きに読んだら、いいんじゃないかな。


本好きの人たちの本を読んでいると、「有益なところだけピックアップして‥」とか、「無駄だとおもったら閉じて‥」とか、「値段に見合うものかどうか目次を見てから‥」とか書いていなくて、とても助かる。

本との、無理のない付き合いを。
読書が、生活そのものに溶け込んでしまっているような人生を。

せわしないこの時代。
そういう読書の仕方ができるって、実はとても意味のあることなのかもしれない。



今宵も、本を読んで寝る。

明日は、読まないかもしれない。
だけどまたその翌日に、わたしは、本を読むのだろう。







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