毎日投稿をやめてみた。
毎日投稿を、やめることにした。
いつもなら、子どもたちを寝かしつけたあと、翌朝投稿する用の記事を書く。
でも先日、「荷物」を減らすことについて考えたとき、「noteを毎日投稿すること」も、一旦やめてみようと思い立った。
・「◯日目投稿達成」の罠
たまたまなのだろうけど。
ここ数日で、毎日投稿について悩まれている方の記事をよく見かけた。
長く続けてきたからこそ、しんどい、続ける意味がわからない、でもせっかくやってきたんだから、やめられない。やめたくない。
そういう思いが綴られていた。
わかる。
たしかに、やめにくい。
投稿したあと、「◯日目」と表示されるだけなのに、なぜかそれを途切れさせてはならない衝動に駆られる気持ち。
わたしの中にも、たしかにある。
一方で、「苦痛なら、一旦やめたらええやん」と、冷静な判断を下す自分もいた。
書く仕事をされていたり、発信が必要な方はそうはいかないだろう。
でも少なくとも私の場合、noteは趣味の範疇。
一回投稿が途切れても、なんの支障もないじゃないかと思ったのである。
私はたぶん、「◯日投稿達成」の罠にかかっているのだ。
罠なんて言い方をして、公式さんや連続投稿を目標にしている方には、失礼極まりないけれど。
「◯日投稿」を祝ってくれるあの表示は、たしかに継続意欲を高めてくれる。
勇気を出して投稿したとき、あの表示に何度も救われてきた。
でも、今のわたしは、最後の記事が何日目だったかすら覚えていない。
たぶん、139だった、かな。
「◯日連続投稿達成」という肩書きに、私はすでに興味を失っているのだ。
それなら、毎日じゃなくていい。
書きたくない時は、書かなくていい。
まあそれでも一応、毎日投稿が途切れる寸前まで、自分の本心を探ってみよう。
そう思った一昨日の夜。
ひさしぶりにブルーライトを浴びないまま、布団に入った。
翌日も、丸っと1日noteを書かなかった。
今までの私なら、「今日の投稿まだしてへん!何か書かなきゃ!」という焦りが常に隣にいたが、今日はそれも感じない。
だってべつに、今日投稿しなくたっていいんだから。
それはとても、「気楽」だった。
・自分の時間の8割を「note」に使っていた
離れてみると、自分がいかに「noteに記事を書いて投稿すること」に時間をとられていたかがよくわかる。
わたしは、1日の中の「自分時間」のうち、7〜8割をnoteに割いていた。
そもそもの「自分時間」自体が2〜3時間。
毎日投稿のために、そのほとんどを記事を書くことに使っていたので、他のことに時間がとれなくなって当然だった。
そもそも、どうして「毎日投稿」を始めたんだっけ。目的は、なんだったか。
わたしにとっては、「書くことへのハードルを下げること」と、「書くことを習慣化」することだった。
もうどちらも、達成されている。
書くことが趣味だと自覚できるくらい、書くのはなんの苦にもならないと分かった。
手書きノートも、毎日書いている。
「毎日投稿」にこだわっていたのは、ただ「◯日目 連続投稿」を途切れさせたくないというケチな意地だけだった。
というわけで、その日。
わたしは noteに使われていたはずの時間に、他の好きなことをたくさん詰め込んで過ごした。
ひさしぶりに漫画も読み、以前好きだった音ゲーまで開いた。本も読んだし、YouTubeで料理動画を漁ったりもした。
寝かしつけの後、いつもお互い1人の時間を過ごすのだけど、昨晩は夫と1時間くらいゆっくり喋ることができた。
そして、23時頃。
今なにかを投稿すれば、毎日投稿が続けられる時間が来た。
わたしは、あえて投稿しなかった。
あえて、連続投稿を途切れさせる方を選んだ。
「毎日投稿しようかな、やめようかな」
その悩みから、自分を解放したい。
投稿したいときにする、自由な私でありたい。
こうしてわたしは、その日もまた、noteを投稿せずに寝た。
・「毎日投稿」をやめてみて
投稿が途切れて思ったのは、「わたしはやっぱり書くんだな」ということだ。
結局、投稿はしなくても、相変わらず頭の中はずっとnoteのネタになりそうなことを考えているし、隙あればメモ帳アプリに記事のメモ書きを取り続けた。
そしてそれが、楽しかった。
そうだ。
書くことは、とっても楽しいのだ。
頭が考えで埋め尽くされ、それが言葉になって吐き出され、ひとつのまとまりとなっていく過程は、わたしにとって「充実」のひとことだった。
わたしがやりたいのは、毎日投稿ではなく、毎日「書く」だった。
書くことはやめられなかった。
思考も筆も、止まらなかった。
連続投稿しなくとも、記事を書くことは楽しいままだ。
noteは、やっぱりわたしの居場所だった。
書くことは、わたしの一部になっていた。
それに、離れてみてもうひとつ、思い出したことがある。
それは、「自分が何が書きたかったのか」ということだ。
わたしは、「楽しいこと」を書きたかった。
子どもとの会話、昔の楽しかった思い出、夫とののほほんとした時間、出会った素晴らしい本や映画、そして自分を見つめた時のこと。
それらを言葉にし、記録に残し、考えをまとめることで、気分が上向いたり、読み返してハッピーになれたりするために書いていたのだ。
そしてあわよくば、読んでいただいた人にも、ほっこりしてもらったり、くすっと笑ってもらったり。
「しんどい」という気持ちを、記事にだだ漏れさせてようやく気がついたのだ。
余裕がない自分に。
楽しむ心を失っているわたしに。
そして、そんなしんどい中で書き続ける目的が、「毎日投稿」そのものになってしまっていたことに。
ああ、やめてみて良かったと思った。
気づけてよかった。
楽しみ方を見失わなくてよかった。
「note」は一生やめる気はない。
書くことも、一生やめる気はない。
ただ、長くいっしょに歩んでいくために、時々こうしてほどよい距離間を見つめ直すことが、わたしには必要なようだった。
今日からわたしは、また何度もnoteを書いて、再び連続投稿をするんだろう。
でもそれは「毎日連続投稿達成」のためではない。
いつやめてもいいし、しない日があってもいい。
「◯日目」の表示も見なくていいし、時間に追われながら、慌てて推敲しなくてもいい。
優先すべき一番のことは、わたしが気持ちがいいかどうかだ。
自分が楽しく、心地よく、体も心も健やかでいられるかどうかだ。
そのことに気づけた今、わたしの心はとても穏やかだ。
納得のいく答えを導き出して、ゆっくりと自分のペースで書いている今この時間こそ、わたしが求めていた「note」なのかもしれない。
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