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朝イチに投稿しなくたっていいんだ。


なんで、朝イチの投稿にしていたんだろう。


夜の間に用意した記事を、翌朝一番に投稿する。
それがわたしのルーティンだった。

まだ暗い部屋で、起き抜けに携帯を開き、昨晩推敲しておいた記事を出してきて、「公開する」ボタンを押す。
そしてまた、バタンと携帯を閉じる。
それが、朝の日課。


そこからしばらくは、次男と格闘したり、長男の朝ごはんを用意したり、自分の身支度や夜ご飯作りに追われ、「note」を開くチャンスはない。
長男を送り出し、次男の遊びが一段落ついた頃、もう一度「note」を確認できる余裕がおとずれる。
そこで、朝投稿した記事への反応を見返す。
読みにきてくださった方のお名前を見つめたり、コメントがあればお返事したりするのもココだ。


数分ほどそれをしたら、投稿した記事のことは忘れるようにしている。
ビュー数も、スキ数も見ない。
こわいし、気になるから、あえて考えないようにしているのもあるし、それよりも新しい記事のことを考える方が楽しい。

そしてまた、明日の投稿を準備する。
ストックから選び、推敲して、翌朝すぐに投稿できるよう、万全の準備しておく。
そんな日々を繰り返してきた。



でも、よく考えたら、なぜ朝イチ投稿にこだわっていたんだろう。

ひとつは、毎日投稿をするにあたって、朝イチにやるべきことを終わらせておきたいという願望があったからだ。
いつどこで投稿しようか悩みながら、1日を過ごすなんて、そわそわする。



もうひとつは、いろんな時間に投稿するよりも、朝イチに投稿した方が、たくさんの人の目につくような気がしたから。
一時期、夜よりも朝に投稿した記事の方が、「スキ」をもらえている気がしていた。
みんな、朝活や通勤時間に「note」を開くのかもしれない。
それなら、朝のうちに投稿した記事の方が目立つよね、と。

昔のわたしは、なんとなくでそれを感じて、朝イチ投稿をしようと決めたのだった。
しかし今となっては、スキ数とか、目立つとか、そんなことは気にならない。


それよりも、1日が携帯からはじまるのが、ちょっとイヤになってきたくらいだ。
息子より、自分より、携帯ではじまるモーニングルーティン。
携帯に、ネットに、支配されてる感じで、なんだか情けない。


だから最近は、朝イチ投稿にこだわらない。
投稿できるとき、投稿したいときにする。
できないなら、しない。
一日に何個投稿してもいい(これはまだ、なんとなくできていない)。

タイミングは、わたしが決める。
やりたいと思ったときにやるのだ、わたしは。



いちばん効率がいいからでも、反応がもらえるからでもなく、わたしの気持ちが「そこ」だと言うから、それを選ぶ。
朝イチに投稿した日は、朝イチにしたいと思う気分だっただけだし、夜に投稿した日は、夜の気分だった。

それだけだ。







最近こういう、「ネットに支配されている」感が無性にイヤになるときがあって、もがいてしまう。

そんなに意識が高いわけではないので、ふつうにSNSをぼやっと触ってしまうし、YouTubeもよく見る。
好きな動画配信もあって、それを楽しみに過ごすことだって。

でもなあ。
なーんか、ネットに心まで奪われそうになるときがあって、それってどうなの、って。

わたしがほんとうに大切にしたいものは、ネットにはひとつもなくて、目の前の家族だったり、料理や本を楽しむ時間だったり、ひとりで何かを書くことだったりする。
それは、SNSにもYouTubeにもない。
わたしの家族も友人も、ネットにはいない。


それなのに。
なんでわたしは、こんなにも多くのことを、ネットの世界に影響されているんだろう。
ネットの世界は、「他人」なのに。
それに夢中になるなんて。
ふと、バカバカしくおもえてくる。

もちろん、他人だから程よい関係を築けるのも分かるし、ネットにたくさんの方が情報を流してくださって、その恩恵をうけているのもわかる。
「note」でお名前を知った方々も、YouTubeでよく見る配信者さんも、わたしの生活を間違いなくハッピーにしてくださっている、ひとり。


でも、なんか違うんだ。
それとこれとは、違う。

わたしの心のすべてを、ネットに支配させてなるものか。
わたしの決断も、暮らしも、生き方も、ネットの他人に流されてばかりじゃダメだ。
振り回される側になっちゃいけない。
振り回すんだ、手綱はいつもわたしが持つ。



そんな気持ちが、真夜中にふと湧いてきて、おらーっと記事を書いて、そのまま寝た。
推敲も投稿も、明日でいいや。


この記事がいつ投稿されるのか分からないけど、それが投稿されたときが、そういう気分の「わたし」だっただけ。
それだけだ。

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