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自分だけとどめず、「投稿」するのはなぜか。
古賀史健さんの『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読んだ。
その中で、論理的に書くことの大切さが解かれていた。
きちんと筋が通るよう、いちど図や簡単な手書きで自分の考えを整理してから、記事を書き始めるのが良いそうだ。
書く前に筋書きをつくるのは、毎回やったりやらなかったりだったが。
本書を読んで以降、あらためて真剣に取り組み始めた。
書きたいことについて考えながら、自分と向き合って、思案する。
つまりこうかな、いや、だからこうかな、と手を動かす。
そうしていると、だんだん自分の考えていたことがまとまってくる。
言いたいことがなにか、ハッキリしてくる。
そうそう、と納得できる筋書きが完成。
それをもとに、今度は記事を書き始める。
筋に沿って、言葉を紡いでいく。
筋書きのときには大雑把だった細部も、言葉によってより鮮明になり、いよいよ自分がどう考えていたか分かってきたとき。
なんか、もういいかな、ってなる。
これ、仕上げる意味ある?
そんなふうに思って、手が止まるのだ。
だって、もうわかったやん。
自分の考えたかったことは、理解できたやん。
こういう主題があって、こう仮説を立てて、実践したら、こんな結論になりました、という流れ。
それはもう、筋書きの段階でじゅうぶん知れた。
答えも出たし、何をどう考えたかったのか、自分の頭の中はハッキリしたではないか。
それなのに、どうしてわざわざ他人が読みやすいように推敲する?
読まれやすいようにタイトルを考え、画像までつけて。
そこまでして投稿する意味とは、なんだ?
わたしは、ただ考えたかったのか。
自分の考えを、知りたかったのか。
それともだれかに、伝えたかったのか。
もし前者のふたつなら、推敲して、投稿する必要はないように思える。
‥こんなことを考えていたおかげで、昨日は記事を投稿しそびれた。
*
それでも今日、こうして投稿しているということは、結論が出たということになる。
なぜ、自分の考えはもう理解できたのに、わざわざそれを投稿するのか。
導いた結論は、次のふたつだ。
(1)忘れてしまうから、形に残すため。
人は、どんどん忘れてしまう。
最近の私は、特に忘れっぽくて、ものすごく大事なことをひらめいても、メモをしようと三歩進めば、頭から消えるレベルである。
そんな人間なので、当然考えたこともすぐどこかへ飛んでいく。
だから、言葉にして、形に残して記録していけば、忘れない。
でも、それだと疑問は解決しない。
忘れないために書くのであれば、できあがった記事は、投稿せずに、自分だけが読める日記帳やパソコンにでも記録すればいい。
わざわざ、人目のつくところに投稿する必要はないはずだ。
書いたり考えたりするための、モチベーション維持が目的という場合もあるだろう。
他人からの反応があるおかげで、記事を投稿し続けられるという理由だ。
でもそれだと、反応をもらえなかったら、書けなくなる。
◯日連続投稿の表示や、スキやコメントばかり意識していたら、いつのまにか目的がすり替わる。
思うようにいかなくなると、書く気が失せる。
自分のために書いているのなら、反応や評価は気にしない方がいいはずだ。
(2)「ひとりよがり」防止のため。
忘れないことや、他者からの承認を目的に投稿するのではないのなら、どんな理由があるだろう。
それは、「ひとりよがり」をやめるためだ。
どんなに良い考えがうかんでも、それを自分の中だけで留めていては、新たな気づきを得られない。
でも、もしnoteに投稿すれば、コメントがもらえて、さらに考えが深まるかもしれない。
だから、人目につくところに、自分の考えをさらけ出す。
おのれの成長のため、ともいえる。
それに、人が読むと意識することは、人を傷つけないか考えることだ。
言葉や言い回しに配慮し、より正確に内容が伝わるよう試行錯誤をすることで、極論や強い物言いを自制できる。
だれかが読むかもしれないと考えながら推敲すること。
もしかしたら、他の考え方もあるかもしれないと思いながら投稿すること。
こんなふうに、自分ではない読み手を意識するだけで、「ひとりよがり」な世界から抜け出せる。
他SNSでは、そんなことをろくに考えもせず、反射的に発言し、他人を傷つける人もいる。
そういう人は、自分こそ正しい、正論だと思い込んでいるのだろう。
ひとりよがりな世界に、なんの疑問も抱いてないから、炎上やトラブルになる。
自分だけにとどめない。
他人が読める形にして投稿するのは、他者を受け入れる「柔軟性」を磨くためなのかもしれない。
*
とりあえず、自分が納得できる理由が見つかったので、書きかけだった記事をなんのか完成させることができた。
ふと引っかかったおかげで、下書きをいくつも生み出してしまった。
でも、当たり前のように投稿していることに、疑問を持ち、自問自答するのは、目的を見失わないために大切だ。
そして、なにより。
「投稿」はさておき、「書くこと=考えること」を続ける理由だけは、ハッキリしている。
楽しいからだ。
だから、投稿しない日も、書いて考えて楽しんでいる。
それだけはもう、やめられないのだ。
でもせっかくなので、投稿する。
同じく書いて考えることが好きな人たちに出会える貴重な場、noteの世界で。
ここでの、すばらしい出会いが、わたしの世界を広げてくれる気がするから。