母の内職
父の転勤で、裁判所のタイプの仕事を辞めてしまった母ですが、もっぱら家事が苦手。
専業主婦に元から向いていなかったのでしょう。
それでも私が小学生の間、働きに出ると私が帰った時、誰も居ないのは可哀想とその頃、社宅で、流行っていた『内職』をしていました。
社宅には、仕事に出かけなくて、自宅で『内職』をする人が多かったのです。
と言っても、どこから調べて仕事を取って来るのか、沢山の『内職』をしていました。
最初は、「紳士服のボタン付け」で、我が家にはいつも大量のボタンがゴロゴロしていました。よく、“おはじき”にして遊んでいました。
その次には、「綿入れの手縫いでの綴じ付け」で、狭い社宅の私の部屋に「綿入れ」がたくさん山積みになっていました。
封筒貼りもしていました。
封筒の紙を少しずつずらして、糊を付けて折っていくのです。
その脇で、私は折り紙を折っていました。
造花作りもしていました。
商店街の柱に飾ってあるアレです。
昭和ですから、チープで、パリパリした素材の桜です。
この時は、家中、ダンボールだらけ、花だらけになりました。
私が中学生になる頃、電気器具のコードを基盤にハンダ付けの『内職』をし始めました。
元々、手が器用な母で「ハンダ付け」も上手に付けていました。
父は本職が、「エンジニア」で、「ハンダ付け」なんて、お茶の子さいさい(とても古い表現ですね)の人でしたが、母が側で「ハンダ付け」していようと、気にもせず、手出しもせずテレビを見ていました。
昭和でしょうね❗️
私は、たまにコロコロでてくる、水銀の様に銀に輝く丸い玉ハンダのかけらを拾い集めるのが好きでした。
『内職』というのはとてもお金になりません❗️
一つ仕上げて1円2円の世界です。
社宅のアパートでは、主婦が沢山います。
業者さんもここに来れば人手はあると、やって来ていたようで、昭和あるあるでしょうね❗️
結局、私が、中学生になる頃、母はその「ハンダ付け」の依頼工場に、パートに行く様になりました。
自転車で、1KMちょっとの工場です。
元々、誰かと話をするのが好きなタイプです。
『内職』より、楽しかったのでしょう。
なんとなく生き生きしている母でした。