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フォークダンスの思い出

高校は、公立校でした。が、ちょっと変わった学校で、私が高校生当時は、文化祭しかなくて、「運動会」は、ありませんでした!
「大文化祭」の次の年は「小文化祭」と、毎年秋には文化祭シーズンになるのです。
「小文化祭」は、校内のみでおとなしく、壁新聞を各クラス作ったり、文化部の発表をしていました。この「壁新聞」の記事は、こちら


一年生の時は、学校の創立祭も兼ねていたので、割合予算もあり「大文化祭」で、クラス行事として、「餅つき」をしました。
不慣れな生徒たちで、もち米を蒸して、突いて(来ている子供達に突かせたりもしました)安い金額で、販売しました。
(売り上げで、打ち上げもしました♡)
餅の中に何かを入れるなんて、出来なかったので、きな粉餅と、あんこ乗せ餅です。
クラスごとに色々催しをしていたので、一学年10クラス、全学年で、30もの催しがあり、また、クラブ活動での催しもあり、なかなかの大盛況だったのです。

他のクラスでは「映画」を作ったり(後に映画制作愛好会として、入部させられる)

テッパンの喫茶ルームや、お化け屋敷、お団子屋、カレー屋など様々に生徒たちだけで行っていました。(三年の時は、早食い大会しました)


その「大文化祭」も終わると、
各クラス大掃除です。
その大掃除で、出てきた廃材は運動場の真ん中に集められます。
もちろん、紙や木材です。
文化祭が終わった日は夜まで学校に残って、その廃材を燃やしてキャンプファイヤーの様にその周りを「フォークダンス」するのです。

我が校は、3:2と、女子が少ない学校でした。
当然、「オクラホマミキサー」を踊るとなると
男女の比があるので男子の女子役が出てきます。
二、三年は、優遇されるのですが、一年の男子の多くは女子役です。
女子役になった子たちは、可愛ぶって右肩の上に手を乗せ、男子に手を差し出さないといけないのてした。
女子役の子たちもイヤイヤですが、男子が廻って来た、男子たちもイヤイヤで踊っていました。でも、たまにやって来る女子達との踊りを楽しみに踊るのでした。

なぜ、そういう行事があったのか。
元々、男子校だった学校で、戦後、共学になり、「フォークダンス」という男女が手を取り合って踊ることが出来る様になったお祝いの様な行事だったのだと思います。

今では、「文化祭」も「小文化祭」のみになり、また、「大文化祭」も、「運動会」に変わって、夜、学校に残ることも無くなり、ファイヤーも無くなり、「フォークダンス」も無くなってしまったそうです。
私の時代は、お得だった様な気もします。

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