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短編小説『腸迷惑(私の視点)』



『腸迷惑(私の視点)』



出ねえ。それは恋愛に御利益のある神社のおみくじで大吉が出ないのではなく、はたまた、督促状が届いていたにも関わらず料金未納で水道水が出ないというのでもない。目の前にある共用トイレに入っている誰かが一向に出てこないのである。私は小便が漏れそうだった。膀胱が締めつけられるように痛む。仕方がないから隣の女子トイレに入ろうかと一瞬考えたが、そんな蛮行を誰かに目撃されたら、
「キショすぎる短小男がカメラで盗撮してるわ!」
などと糾弾されて、店を出入り禁止になるだろう。


この喫茶店は二階建てなのだが、トイレが二階にしかない。しかも、女子トイレと共用トイレの二つしかなく、男子トイレがないのである。そこがこの喫茶店の難点であり、巻き舌でクレームをいれたいほど苛つくのだが、自宅から近くて夜遅くまで営業しており、客層が良質というか、常識と教養のある人間が多いので、有象無象が集う他店のようなガチャガチャした雑音がなくて居心地がよいのである。


だから今日も二階席で椅子に踏ん反り返り、メロンクリームソーダを飲みながら文豪・井伏鱒二の『白毛』という短編小説を読んでいた。『白毛』は主人公が山村の釣場で知り合った青年二人からテグスの代用に自身の頭の白髪を三十五本も抜かれる暴行被害に合って腹が立ったという話なのだが、いつの時代にも一定数存在するそのような冷酷強欲クソ人間がこの共用トイレを占領しているのではないかと私のような低能はおおげさに考えていたのである。



かれこれ三十分も出てこない。トイレ内で何をしているのか。下品な女が厚塗りメイクでもしているのか。あるいは、童貞のナルシスト青年がヘアワックスで毛束感を演出するためにてこずっているのか。どちらにせよ、こっちからしたら甚だ迷惑極まりない。トレインスポッティングのような感じで便器に顔を突っ込んでから死なないかな。死なないのならば、再来月くらいに尿管結石で過度に苦しみなさい。とか思いつつ、扉を遠慮がちにトントンとノックすると、三四秒後にトントンと返ってくる。
もう一度、トントンとノックすると、やはり、三四秒後にトントンと返ってきた。私は何故だか笑ってしまった。律儀な人間だ。誠実な人間だ。知り合い、いや、友達になれそうな気がした。


学生時代、私が住んでいた安アパートは部屋の壁が極薄だった。住人の生活音が筒抜け状態であり、夜中に隣人のくしゃみやゲップが聞こえてくるほどなのだ。ある日の夕方、私はゴーイング・ステディというパンク・ロックバンドの「東京少年」という曲をスピーカーで聴いていると、どういうわけか隣人も「東京少年」を聴き始めた。「東京少年」は四分四十秒くらいの速くて激しい曲で、殊にベースギターのフレーズが巧妙である。歌うように動くベースの地を這うような低音がノイズの間隙を縫うのだ。その轟音が部屋の壁越しに反響し合って非常にうるさかったのだが、私は随喜の涙を流し、多量の涎を舌先から滴らせて、「これこそが青春だっ。僕等は若くて心がゆがんだ。それは社会のせいだ。あいつのせいだ。隣人はどんな人間なのか知らないが好感が持てる。性別も顔もわからないけれど、ときめきたいったらありゃしねえ」と心の底から思った。



そのときの感慨がフラッシュバックして泣きそうになった。近頃、涙脆い。歳はとりたくないものだ。頻尿になるし、白髪も増えるし、歯茎も痩せるしね。などとよけいなことばかり愚考している私はトイレの前で股の内側を擦り合わせた。尿意を我慢できそうになく、既にパンツに染みができているかもしれない。あとで家の洗濯機に放り投げるときに、
「そういや、自分は小学六年の終わりまでおねしょが治らなかったなあ。修学旅行はその日の夜のことで頭がいっぱいで、何を見てもどこへいっても好きな女の子と喋っても全然楽しめなかった。水一滴摂取せず、極度の緊張状態で夜を乗り切ったのさ…」
と言って仏頂面になり、暗い過去の影を纏いながらジャンピングカエルちゃんが浮遊する柚子風呂に入るのだろう。洗顔は手に力を入れずにやさしくね。


私は尿意を紛らわすために、トイレの脇にある小窓から眼下の通りを見下ろしていると、エナジードリンクのサンプル配布をしている若い女の子たちが目に入った。皆、スタイルがよくて色気のある美人である。いつも思うのだが、あの仕事は絶対に「顔」で採用しているのだろう。野暮ったい女の子がエナジードリンクを配っているのを見たことがない。
たとえば、猫砂を飲みこんだようなしかめ面の女からダミ声で、「はい、お試じで、どんぞぉ…」とか言われても誰も受け取ってくれないだろう。私でも受け取らない。たとえ受け取ったとしても、飲まずに溝川に捨てるだろう。というか、怒りがこみあげてきて、腹いせにどこかの店先に置いてある徳利上げ狸を蹴りつけるかもしれない。そのような馬鹿げたことを空想していると、ひとりの女の子が女子トイレに入っていった。全身黒ずくめで赤髪ボブのウサギ顔の女の子である。女の子は五分くらいでトイレから出てきたが、よく見ると、私の真後ろの席にいた女の子だった。女の子はソープランドの面接をしていて、来週の木曜日から勤務するらしい。



ドヤ街のチンピラ風の中年男とその女の子との会話がきれぎれに耳に入っていた。この店でこの手の面接が行われていることはたまにあることだった。
なぜなら、店の裏手は風俗店が立ち並んでいる猥雑な路地だからである。女の子は実家暮らしの大学三年生で、以前からこの仕事に興味があったからちょっとやってみようと思い立ったのだと男に話した。



男は小汚い口髭を揉みながら、「オレはこの仕事を二十年以上やっていますが、今は昔と違って、ヤクザな仕事じゃないですから。もっとポップでファニーに稼げます。正直に言って、働くことのメリットが大きいですが、あえてデメリットをあげるとするならば、すぐに化粧が崩れてしまうこと、あとはお客様の対応によってはメンタルがやられて半病人になったり、逃亡して行方不明になる子も少数いるという点ですが…まあ、そこはね。そういう子は元々頭がイカれてるやばい奴であって、あなたのような素晴らしい人材はそういうことにはならないのでご安心ください。あと、さっきの質問。接客する上でのコツでしたっけ?それはラーメンをすする感じですね。何となくイメージはつかめました?あなたなら大丈夫です!」などと言ってカフェラテを飲み干した。男の目は濁っていた。女の子の目は澄んでいた。私は胸が痛くなった。女の子は、「指名されるようにがんばります」と言ってはにかんでいた。
席に戻っていく女の子の背中を見て、私は舌を抜かれたように声が出なくなった。ふたたび小窓から外を見ると、エナジードリンクのサンプル配布をしている女の子たちの眩しい笑顔が風に揺れていた。


そういえば、井伏鱒二の『白毛』の中に、「禁欲するしないによって、同じ人の髪の毛でも、弾力性にかなり開きがあるようだ。たとえば、栄養ははるかに上等な女よりも男を知らない女の方が髪の毛が強固である」というようなことが書いてあったが、それが本当だとすれば、赤髪ボブの女の子はこれから髪の毛がズタズタになっていくのかもしれない。
ちなみに私は長年恋愛をしていないが、恋愛をしていた頃よりも今の方が髪の毛に艶があり、バリバリして抜け毛も少ない気がする。美容室のシャンプー係の女の子からも、「あら、ずいぶんと毛根がしっかりしてますこと!」と褒められるほどだった。



歳を重ねるにつれて人を好きになるということが激減している。気になる人とかも滅多に現れず、男特有の狂的な情欲もない。昔は伏見土人形のような顔をして、「あの子、かわいいな」と純然たる気持ちから心が千々に乱れて赤面していたが、近年では、
「あの子、かわいいな。と四秒くらいは思ったけれど、よく見たらそれほどでもなかった。第一、笑い方がいけ好かないし、目が濁っている。あと、山形でトルコアイスが食べたいのよ、とか言われても全く興味が湧かないし、どんな話をしていても心から笑っていない自分がいて、それより、あなたが着ているその薄手のカーディガン!裏表が逆になっているから背中の白タグが見えているし、袖にはカピカピの米粒がついてるよ。粗忽な人だよね。そういうところなんだよな。というか、そのスマホケース汚いなあ。一回、居酒屋の廃油に浸したのかい?」
などとつまらぬことばかりが病的に気になってくる奇癖が発動するので、その子のことがどんどん苦手になっていく。挙句、横浜みなとみらいの大観覧車にひとりきりで搭乗し、スタッフのお兄さんとお姉さんの嘲笑と憐憫が混合したまなざしを思い出しながら、こんな苦しみに打ちひしがれるのはあいつのせいだ、などと悲憤慷慨する体たらくである。


こういう性格の悪さ、複雑怪奇な心のいびつさを持ち合わせている身の程知らずの私は、これから人を好きになれるのだろうか。その前に人格破綻者だと吹聴され、世間から嫌われて石を投げられる畜生に成り下がるのかもしれないと腐心していると、突然ガチャリと音がして、共用トイレの扉が開いた。それはあまりにも唐突だったので、私は反射的に鮮度が落ちたエビのような動きで二、三歩後退した。


現れたのは八十をすぎた婆さんだった。小柄で、少し腰が曲がっている婆さんである。婆さんは高野山の空海の食事と同じメニューで生活していそうな痩せ方をしており、白髪の頭が部分的に薄くなっていた。婆さんは壁に手をつきながら前かがみでゆっくりと動いて、「お兄さん、ごめんなさいね。待たせてしまって…」と私の顔を見て陳謝するので、「いや、いいんです。大丈夫です」と言うと、「本当にごめんなさいね。若い人に迷惑をかけてしまって。このとおり、わたし、腰が悪いもんでね…ゲホゲホォ」と苦しそうに咳をするので、心配しつつ、心の中で、「いつの時代にも一定数存在するそのような冷酷強欲クソ人間がこの共用トイレを占領している」などと愚考してしまったことを猛省し、「渋谷で5時」を歌う菊池桃子のような優しげな微笑みで、「さっき来たばかりですから。でも、わたし、なんだか、なんだか、また待ち合わせしたくなっちゃった…」とよけいなことを言うと、婆さんが、「ところで喫煙所はあっちですかい?」と言って一階席の方を見た。喫驚したが、「喫煙ブースはあちらでございます」と二階席の最奥部を指さすと、婆さんが袂から煙草を取り出して歯がない口でくわえた。


共用トイレにつんのめって入ると、天井の電気が妙に薄暗かった。これまで何十回も使用しているトイレだからすぐに気づいた。こういうのはちゃんと電球を交換しておかないとダメだよね。ましてや、さっきみたいな腰の悪い婆さんが使うこともあるんだからさ。優しさが足りないな。それに、換気扇から蜘蛛の巣が垂れているし、トイレットペーパーホルダーの横にある荷物置き用の板が傾いて壁から外れかけているんだよね。ずさんだよね。一升瓶で殴ろうかな。と思いながら、いざ放尿しようとしたら、便座の蓋が閉まっていた。「あぶねえ、蓋の上に鮮やかな檸檬色の小便をぶっかけるところだったぜ…」と狼狽しつつ、膀胱のキリキリする痛みを我慢しながら蓋を上げると便器が糞で満たされていた。



便器の内側にはさっき食べたキーマカレーを口から吐き出してそれに天かすをまぶした感じの形状になった粘着質な糞が付着しており、精神を圧迫してくるような酷い悪臭がした。無数の銀蠅がたかっていてもおかしくない様相である。私は嘔吐を催した。そして、脳の半分が溶け、混濁した意識の底で、
「人生はみにくいな。菜切り包丁を心臓に突き刺して終わりにしよう。どうせ人間は死ぬんだから」
と思った。洗面台の鏡には、水に浸った青ぶくれの人間の死骸のような私の顔が映っている。婆さんに裏切られ、手酷い仕打ちを受けたという精神的なダメージから気が変になり、店を放火しかけていた。



二十一世紀は腸の時代と言われているらしい。脳のない動物はいても腸のない動物はいないというくらい腸という臓器は重要であり、私たちの体の健康と病気をコントロールしているのが腸内細菌である。感情も腸内環境がコントロールしているらしいし、脳の発達は腸内細菌が関与し、腸内細菌が自閉症やうつなどの精神疾患やストレスの応答にまで関わってくるという。だから、私たちはどんな食べ物を大腸に送り込むかが健康を保つ上でも大事なことなのであり、まあ、誰しもがそこは理解しているとは思うが、食事と運動が健康に重要なのである。ビフィズス菌・乳酸菌・オリゴ糖・食物繊維を含むものを優先的に摂取して、腸内の善玉菌を増やしていきましょうね。ということをよく覚えとけ、鈍骨めっ!二度と俺の前に姿を見せるな、ばかやろう。というのは婆さんに放った言葉ではない。自分自身に言い聞かせたのだ。目下にある地獄的人糞を見て、私は居住まいを正して溜息をついた。あらためて散文的に放尿する。得体の知れない快楽が脳を支配した。



その最中、誰かが扉をトントンとノックする。私は、「ちょっと待て、待て、待って」と苛立ちながら、すぐにトントンと返すと、もう一度、トントンとノックしてきた。「だーかーらー、今、おしっこしててさー、もうすぐ終わるから己の手相でも見て待っとけっ!」と思いながらトントンと返すと、さらにトントンとノックする。私は何故だか笑ってしまった。しつこいヤツだ。そして、馬鹿なヤツだ。知り合い、いや、友達になれそうな気がした。

                    (了)


参考文献
『ドクターサロン60巻 2月号』(1.2016)/辨野義己


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