Outline(Rachel Cusk): 他者との関わりが自分の輪郭を作る
新型コロナウイルス流行の影響で家に閉じこもって生活していたとき、ふと自分自身に対する認識が、肩の荷のおりた、やたらと柔らかいものに移行しつつあることに気づいた。他者の視線のない生活は気軽だったが、その一方で自他の境界の押し合いや譲り合いのようなものがなくなったせいか、張り合いのなさや寂しさも強く感じたことを覚えている。自他の境界、自分と自分じゃないものたちの境界が自己認識に影響するのは明らかで、その大部分を人間関係が占めるのも無理はないか…など、8畳に満たない一人暮らしの部屋で考えていた。
ちょうど昨日読み終わったRachel Cuskの"Outline"はまさにそういった主題を扱った小説で、ジャンルとしてはオートフィクションに分類される。小説家の主人公が、夏の間に短期講師としてアテネを訪れ、様々な人と話をする様子が一人称視点で淡々と描かれる。ハードカバーで250ページくらいの短めの話で、サクッと読めて面白いのでおすすめ。
この小説の面白いところは、なんといっても"nearly invisible narrator"と評される主人公の人物描写だろう。一人称小説は、主人公の視点が地の文(ナレーター)として続くわけだが、大抵ナレーターの自我というのはどこか透明で、読者が完全に没入しやすいようになっていることが多い。"Outline"のナレーターは基本的にこの透明性が顕著なのだが、ふとした瞬間に、火花が散るように、はっきりと人格を見せることがある。ああそうか、彼女ってこんな反応をする人なのか…と思った頃には、主人公の人格はまた透明に戻っている。読者は、主人公が明確に人格を持っていて、immersiveでないナレーターだと知りつつも、彼女の人格全体をよく眺めることはできない。しかし、この小説の内容として”選び取られた”友人との会話そのものが、彼女の価値観や関心のあり方を間接的に示しているはず。まさに、読者は主人公の女性の、不完全な、おぼろげな輪郭(outline)を追いかけながらページを捲る体験をすることになる。
元々はオートフィクションの作品を読むぞ!という目的だけで手に取った本だったけれど、あんまり面白かったので、表紙をめくってから2日くらいであっという間に読み終えてしまった。構成や主題の見せ方も巧みだけれど、なんといってもRachel Cuskは文体が魅力の作家だ!という噂通りだったな〜という感じ。美味しい日本酒に出会ったときってうおお!水みたいに飲める!いやむしろ水よりもスルスルいける!と思うけど、好みの文体の作家さんもそうだよね。小説はお酒と違ってペースも量も節制しなくていいから良いもんです。
透明な主人公(ナレーター)…というところで思い出したのが、Kazuo Ishiguroの"A Pale View of Hills"。この主人公はものすごく没入しやすいナレーターだった。"A Pale View of Hills"は、Kazuo Ishiguroの作品の中で私の一番のお気に入りなのだけれど、海外人気は比較的低い方らしい。戦後日本の人々が時代や価値観の急変に向き合う話なので、そりゃ日本の読者が一番わかるかもな…と思うので納得ではある。Kazuo Ishiguroさんは、小説で選ぶテーマといい、様々な作品に登場するイングランド郊外を思わせる美しい風景といい、めちゃくちゃ英国の人…というイメージが強かったので、こんなに日本人の時代の病を、様々な立場の人の視点から的確に描いてみせたことにかなり驚いた。近いテーマだと"An Artist of the Floating World"もあるけれど、これはまだ読んでいない。
あと、透明な主人公でちょっと変わり種なのが、Paul Austerの”Invisible”。オースターの作品の中でも実験的な構成になっていて、第1章は主人公の一人称視点、第2章は主人公の友人から見た主人公…というように、章を経るごとにナレーターが主人公から遠ざかっていくようになっている。主人公の描写はどんどん間接的になっていき、最後には…という構成。全部で4章構成なので、ぜひ最後どうなるのかを楽しみに読んでほしい。"Invisible"の主人公はいかにもポール・オースターの主人公って感じで好き。
そういえば、私が中古で買ったペーパーバックは前の持ち主による書き込みがあちこちにあった。中古本の書き込みは、以前の持ち主の様子が伺えるので結構好き。今回は何やら単語の書き取りをしてたっぽいので、英語学習者だったのかな。
冒頭で紹介したRachel Cuskの"Outline"は、三部作の第一作。一冊だけ読んでも面白かったけど、続編も読んでみたくなる魅力的な作品だった。買うならカバーを揃いにしたいけど、どうしようか悩み中。