シェアハウス・ロック2407初旬投稿分
【Live】電車の書籍広告0701
電車の書籍広告は、なんでセミナー本、ノウハウ本、深見東州の本ばっかりなんだろう。ただ、電車と言ってもJRには、「今月の新潮文庫」とか、私にも興味のありそうな書籍広告が出ることもある。
セミナー本、ノウハウ本とは、『マジメに働くと人生はツラくなる』とか、『楽してお金を稼ぐには』とか、『他人にあなたを認めさせる10の方法』とか、そういった類の本である。
さて、つい最近電車のなかで見た『算数 ひみつの7つ道具』(かんき出版)の広告についてが本日のお話である。前述のセミナー本、ノウハウ本は、私なんぞには難解で、とても読み通せないと思われるので、まったく興味はわかない。だが、算数だったらなんとかなるかも…と思ったのである。しかも、同書中からと思われる「例題」も、その広告には書かれていた。暇なんで、やってみた。
まず、例題。
51/68を5秒で約分してみよう!
その下には、「5秒で約分する手順」が書かれてあるようだった。私は、それを見ずにチャレンジしてみた。5秒ではできなかった。前回の「作文」では私は出来の悪い小学生だったが、算数でもそれは同様である。
模範手順は、
① まず、「大きい数」の「68」から「51」を引きます。→ 「17」
② つぎに「17」が「何で割れるか」を考えます。 → 「1」か「17」
③ 最後に②の数で①の分数を割ってみます。 → 「3」と「4」
よって、3/4。
うーん。それでいいのかなあ。小学校の算数での約分の問題は、約分が必ずできることが暗黙の了解になっていることはわかる。ただ、それはあくまで暗黙であって、極端に言えば、この手順は算数の授業では成立しても、たとえば理科の授業では成立しないだろう。
だから、例題に「51/68は約分できる分数です」と一言あれば、この模範手順でいいことになる。
だが、この例題「だけ」では、約分できるかどうかは、本当のところは不明である。私は、
①´ 分子が偶数、分母が奇数だから「2」では約分できない。
②´ 「3」だと分子「51」は割り切れる。51=3×17
③´ だが、「3」では、分母「68」は割り切れない。
④´ もう一個の「17」で「68」は割り切れるか、試してみる。割り切れた! 「4」だ。
と考え、10秒弱かかったのである。
でも、お気づきのように、これは「運よく」10秒弱でできただけである。つまり、②´で得た「17」で、「68」がたまたま割り切れただけである。これは「解ける問題だから解けた」ということであって、ここでも「暗黙」が顔を出す。
できの悪い小学生の分際で恐縮至極ではあるが、この「暗黙」をそのままにしておいて、手順に比重を置いて教えるというのはどうなんだろう。
確かに①②③の手順で「できる」ことにはなるだろうが、それは「わかる」こととは多少の距離があるのではないか。
佐伯胖さんに、『できることとわかること』(岩波新書)があり、このあたりを扱った本だったはずだ。書名にちょっと自信がなく、アマゾンで調べたところ、ヒットしなかった。絶版になっているのか、私の記憶違いという可能性もある。ただ、佐伯さんは「できる」「わかる」「まなぶ」を一貫して追いかけた研究者だったので、今回の問題(手順①②③ではなく、私の言っている問題)を考える手助けになる本を多数出しているはずである。
小林信彦は危険な作家0702
「危険な作家」と言われたら、皆さんは誰をお考えになるだろうか。
私だったら、アンリ・バルビュス、ジョリス=カルル・ユイスマンス、マルキ・ド・サド、日本で言えば澁澤龍彦などを考える。
これは一般性があるのだろうか。「Copilot」に聞いてみた。
Q.危険な作家には、どういう人がいますか?
A.危険な作家とは、鋭い視点で現実を昇華させる作家を指します。彼らは大衆の愚かしさや情報化社会の本質を鮮やかな想像力で描き、フィクションに昇華します。一人の代表的な危険な作家は、筒井康隆氏です。彼は『48億の妄想』などでテレビの影響力を予見し、現実とフィクションの境界を曖昧にする時代を予言していました。また、フランスの作家ピエール・ショデルロ・ド・ラクロは、小説『危険な関係』で知られています。彼の作品は、人々の認識を転倒させる危うさを持っています。もちろん、危険な作家はさまざまなスタイルやジャンルで活躍しています。
ふーん。そうですか。
ちなみに、A.の冒頭から「筒井康隆氏です」あたりまでは、どこやらのサイトの完全コピペである。読んだ記憶がある。まあ、AIの限界ですな。
ところで表題の「小林信彦は危険な作家」は、AIの限界よりもさらに内容的には程度が低い話だ。ただ単に、週刊誌のコラムを電車のなかで読んでいて、笑いがとまらなくなったというだけの「危険性」である。ただ、こんなふうになったのは、後にも先にも小林信彦さんのコラムだけだ。しかも三回もある。
でも、一度でもこのような経験がある人には、これは相当に危険であることをご理解いただけるのではないかと思う。
電車のなかで雑誌を読んでいて、おもしろいフレーズに出くわし、思わず笑ってしまう。しかも、声をあげて笑ってしまう。周りは、「ヘンな人がいる」と思うだろうな。この笑いを止めなければと思う。そのシチュエーション自体がおかしいのでまた笑う。この悪循環は相当に苦しいもので、笑っているけれども苦しい。
せっかく「Copilot」の回答で筒井康隆先生にご登場いただいたので、上記の状況に類似した筒井康隆の短編を例に引く。タイトルは忘れたが、山のなかの村に行った主人公が酒席に誘われる。村人は、酒を飲み、なんだかメチャクチャな歌詞の歌を歌い、ゲラゲラ笑い合っている。似たようなメチャクチャな歌詞の歌を、次々と別の村人が歌う。同じ曲で、歌詞だけが違うようだ。主人公もつられて、彼らの歌詞を真似して歌うが、歌い終わったところで座が凍りつく。彼らは、禁忌に触れるギリギリの、たとえば一文字違いといった歌詞を歌い、それで笑っていたのである。だが、禁忌に触れる歌詞を知らないよそ者の主人公は、たまたま、その禁忌に触れる歌詞をそのままに歌ってしまったのである。
この小説の禁忌、それに触れる危険、笑いの三題噺ほど深刻ではないが、小林信彦さんのコラムの危険性は、構造的にとても似ていると思う。
ただ、その規制がなければ、もしかしたら笑いを制止するのに苦労するほどでもないのかもしれない。
最初に「そうなってしまった」コラムは、小林信彦さんが昔々の日活映画の話を書いていて、石原裕次郎は「裕ちゃん」だが、小林旭は「アキラ」であるのはなんでなのかと考察は進み、小林旭の無国籍西部劇に話が展開し、その主題歌を歌う「アキラ」を評して、
頭にキンキン響くアキラの親不孝声
で、私は前述の状態になってしまったのである。ねっ、電車の座席じゃなければ、それほどおもしろくもないでしょ。
小林信彦さんで二度笑う0703
小林信彦さんは、私の好きな作家である。刊行された本もほぼ読んでいる。『週刊文春』で長い間見開きのコラムを書かれていて(前回のお話もこのコラム)、ここ数年は休載している。脳梗塞で入院され、入院記みたいなものをそのコラムで書いた後の休載だから、とても心配している。
このコラムは相当長い間続いた。よって前回、今回の話と、これからする次回の話もいつごろのことだかはよくおぼえていない。
まず、笑いが止まらなくなって苦しむ別の例をあげる。
葬式で、読経する坊主を斜め後ろから見ていて、その声から「この坊主、カラオケが好きで、たぶん相当カラオケスナックなんかに通いつめているんだろうな」などと考えてしまい、その坊主が『勘太郎月夜』などという歌を熱唱している姿が浮かんでしまい、「フリまで付けるんじゃねえよ」と言ってやりたくなったり、その想像からどうしても逃れられず、「笑ってはいけない」(葬式だからね)と思うものの、この規制すらもおかしく、さすがに葬式だから笑わないものの、笑いを我慢をするために体のあちこちに力が入り、腹筋がひくひくするなどという状況をお考えいただきたい。
さて、小林信彦さんのコラムで、二回目に笑いが止まらなくなって困ったのは歌謡曲の話で、である。
そのコラムは、そもそもは、歌謡曲の歌詞には無内容なものが多いという話だったと思う。小林信彦さんの挙げた例はまったく記憶がないので、仕方ない、私が無内容の例を探して挙げる。
灰田勝彦が歌った『煌めく星座』。この歌は二番まである。一番二番でいろいろと言ってはいるものの、基本「男である」「星が出ている」の二点しか言ってはいない。つまり、無内容。しかも、この「星」は「夜空にただ一つ」であり、「金の星」であるので、金星であることは間違いない。ところがタイトルには「星座」とある。金星=惑星は星座を構成しない。惑星なんかを含めたら星座にならない。星座がぐちゃぐちゃになってしまう。よって無内容であると同時に、間違いでもあるのがこの歌である。
また、二村定一の歌った『アラビアの唄』は、全編「アラビアである」としか言っていない。
小林信彦さんはこういう話をした後で、『アジャパー天国』(歌泉友子、伴淳三郎)に接続し、
貴方はアジャーで 私はパーよ。
この無内容さはただごとではない。
「この無内容さはただごとではない」で、私は笑いが止まらなくなったのである。電車のなかだからね。周りは、ヘンなヤツがいると思ったんだろう。席を移ったヤツもいたと思った。一回目よりも、二回目のほうが深刻だったな。
こうなると、どういう曲なのか聴かないと収まらない。八方手を尽くし、大が一つでは足らない大親友のタダオちゃんの従兄(SP盤のコレクター)にテープにダビングしてもらい、やっと聞くことができた。
確かに前述のように歌ってはいたが、あまりおもしろいものでもなかった。今回お話ししたようなおもしろさは、音楽にはまずない。なんでかなあ。
ああ、余談だが、『アジャパー天国』という映画もあるみたいだ。アジャパーなんだろうな、たぶん。
三度目の小林信彦さん0704
笑いが止まらなくなった小林信彦さんの三度目のコラムは、武者小路実篤ネタである。
90歳を超えた武者小路実篤のエッセイが、ネタになっている。これは説明不要なので、いきなり紹介する。
人間にはいろいろな人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間には立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。
これを評して、小林信彦さんは、壊れたレコードみたいだと言っている。つまり、「終わるかな」と思っていたら前のところに戻り、「今度こそ終わるかも」と思うと一番最初に戻ったりする。
若くて、CD以降しか知らない人にはわからないだろうけれども、レコードに傷がつくと、そこで針がヘンな挙動をし、とんでもないところに戻ったり、同じところを何べんも繰り返したりしたのである。冗談の解説をするようになったら、もうおしまいですな。
ただ、これは、『老人力のふしぎ』(赤瀬川原平他)から拾ってきた武者小路実篤のエッセイだ。私が読んだものとは、微妙に違う気がする。私が小林信彦さんのコラムで読んだのは、「頑張っていただきたい」がテーマだったような気がする。上記は、「生きる」がテーマだ。
上記引用を参考にしながら、私が読んだものの再現を試みる。こういうのは、割合得意だ。
人間は誰でも、頑張って生きなければならない。頑張って生きなければならないが、頑張れなかった人もいるだろう。頑張っても、頑張れない時もある。でも、頑張らなければと思っても、頑張れないこともある。頑張って人生を送っていただきたい。その内に頑張れないときもあるだろう。それでも、皆頑張ってもらいたい。
うーん。私が読んだのは、こっちのが近いような気がする。
ちょっと不埒なことを考えてしまったが、武者小路実篤てえ人は、90歳を超えたら、こんなエッセイをいっぱい書いてたのだろうか。
それがもしいっぱいあるのであれば、それ集めて一冊の本にしたらどうだろう。意外と売れるかもしれない。私は買うよ。こんなおもしろい読み物はめったにない。
文末になったが、私は武者小路実篤の本を一冊も読んでいない。なんでかなあ。ムシが好かなかったのか、なんだか説教じみているのが嫌だったのか。
だから、私は武者小路実篤の文章は上記と、観光地でよく売っていた蝋石でつくった愚劣な置物に武者小路の自筆(コピーだけどね)で「友情(なすび)」とか、「仲良きことは良き哉(かぼちゃ)」とか、そんなのしか知らない。ああそうそう、相田みつおっぽい感じ。よく居酒屋のトイレに貼ってあるでしょ、相田みつお。「人間だもの」とか。
若い人にはわからないだろうけど、蝋石でつくったそういうお土産物があったんだよ、昔。東京タワーの置物とか、ユネスコ村の風車の置物とか。なーーんの役にも立たないお土産物。こっちも知らないだろうな。知らなくても痛くも痒くもないし、知らないほうがいいかもしれない。知らなくともなーーんも困らない。あ、ちょっと武者小路実篤っぽくなってるな。
ちょっと真面目に小林信彦さんを紹介する0705
1980年前後に、角川文庫で小林信彦さんの作品がどっと出された時期があった。狂喜して購入し、狂喜して読んだ。
小林信彦さんの守備範囲は広く、純文学作品の『冬の神話』(集団疎開の話がメイン)から、「オヨヨ大統領」シリーズ、 『唐獅子株式会社』シリーズなど、タイトルからしてスラップスティックスラップスティックしているもの(早口言葉みたいだね)まであり、『世界の喜劇人』『日本の喜劇人』『天才伝説 横山やすし』『おかしな男 渥美清』『植木等と藤山寛美』など喜劇役者の評伝にまで及ぶ。
小林信彦さんは、日本のテレビ草創期に放送作家をやっていたことがあった。構成をやったり、コントを書いたりしていたのだ。このころに、上の「喜劇役者の評伝」を書く人脈を得て、かつ素地が養われたのだろう。
そのころのエピソードで、四谷三丁目に住んでいたときに、子どもが小さく、階段から落ちそうで怖いといった話をしたら、野坂昭如が大工さんとともに現れ、柵をつくってくれたという話を、この三回でお話ししていたコラムで読んだことがある。
東京の歴史的な地層をなぞり、個人的体験を書きつづった一群の作品がある。『私説東京繁昌記』『私説東京放浪記』『和菓子屋の息子』『日本橋バビロン』などが該当する。
私としては、『ぼくたちの好きな戦争』もここにラインアップしたい。これは幼少期に浅草に入り浸り、六区の芝居小屋を覗いたり、映画館で喜劇映画を見たりしていた話がメインである。戦争中に、今半ですき焼きを食べたら、ザクにかぼちゃが入っていて、「この戦争は負けるかもしれない」と感じたという話も、『ぼくたちの好きな戦争』中のエピソードだったと思う。東京シリーズの一部、『東京少年』『日本橋バビロン』『流される』を自伝三部作と呼ぶ人たちもいる。
タイトルを忘れてしまったのだが、過去にタイムスリップした若者が、実の叔母に恋をしてしまうという、なんともキュートな小説があったが、次のうちのどれかだったと思う。『ハートブレイク・キッズ』『ミート・ザ・ビートルズ』(後に『イエスタデイ・ワンス・モアPart2 ミート・ザ・ビートルズ』)『イーストサイド・ワルツ』『ムーン・リヴァーの向こう側』『ビートルズの優しい夜』。一番疑わしいのが、『イーストサイド・ワルツ』である。
このカタカナカタカナしたタイトルのうちのどれかで、日本に来たビートルズがヒルトンホテルの部屋で『Hello,Goodbye』をつくったときのことを書いている。むろんフィクションだろう。
前述の「オヨヨ大統領」シリーズには、娘さんが小さいときに彼女に読んでもらうことを目的に書いたもの(たぶん『怪人オヨヨ大統領』。『オヨヨ島の冒険』だったかもしれない)から、 『大統領の密使』『大統領の晩餐』など、大人が読んでも十分におもしろいものまでがラインアップされている。
小林信彦さんは、中央区東日本橋の生まれ育ちの江戸っ子である。江戸っ子はシャイなので、間違っても「文豪」なんぞと呼ばれたくなくて、わざと軽いものを書き続けて来たのではないかと、私は考えている。
東日本橋は比較的最近にできた地名で、あのあたりは両国と呼ばれていた。以前明暦の大火のお話をしたが(「江戸時代のエアポケット0620」「都市計画から見た『振袖火事』0621」)、大火後に「火除け地」として整備された両国広小路は、東日本橋のあたりである。いまの両国のあたりは、「向こう両国」「向かい両国」などと呼ばれていた。
『東京人』という雑誌の創刊号で、小林信彦さんは吉本隆明さんと対談をしている。ずっと読みたいと思い、果たせなかったのだが、今回調べたなかで『よろこばしい邂逅 吉本隆明対談集』に収録されていることを知った。また、吉本さんのメディア論を、小林信彦さんが評価していたことも知った。それも読んでみたい。
【Live】今週の月曜日0706
今週の月曜日に、畏友その1と久しぶりで会った。飲み会なので、当然我がシェアハウスのおばさんも参加する。
畏友その1と私は50年来の付き合いである。おばさんは、たかだかここ20年というところなのだが、私ら3人がいるところを見ると、畏友その1とおばさんが友だちで、私は随行者と見えるだろう。特に歩いているときなど、畏友その1とおばさんが人もなげに大声でしゃべり、その後をディバッグを背負った私がトボトボとついていく構図になる。
ただ、これは畏友その1が聴覚に問題が出て来てかなり深刻、おばさんもこのところちょっとそこんとこがアレになってきていて、私が梅雨時の湿度で喘息の状態が悪いからである。少し急いで歩くとハーハーいってしまう。
さて、畏友その1が連れて行ってくれたお店は、東武東上線・ときわ台から徒歩5分くらいのところにある「一生」である。
畏友その1と仲良くなって比較的すぐに、一緒に飲み歩いたことがある。まだ23、4のころだ。そのころ私は、吉野家で並みを注文し、頭をつまみに酒を飲み、一合飲んだら丼の残りをかき込んで、「はい、ごちそうさん」という野蛮な時期である。だいたい、私の友だち連中はみんなそんなもんだった。
ところがコイツは、一軒入る前に施政方針演説をする。たとえば、「ここでは泡盛は二杯。つまみはトウフヨウのみ。他のものに目をくれてはいけない」。こういう調子だ。私は前述のような状態だから、「なんてヤツだ」と思ったものだった。
それから50年、施政方針演説で鍛えてきたわけだから、コイツの店のセレクトは間違いない。我がシェアハウスのおばさんからも絶大の信用を得ている。
店に入ったら奥の別室めいたところに案内された。畏友その1は、前述のように耳が悪く、友だちを連れてきたので、その席に案内してくれたのだろう。
まず、「案内者特権」とやらで、畏友その1は、「今日のお勧め」みたいなスパムの天ぷら、なんとかいうエビの揚げ物、もう一品を注文。畏友その1が入れていた「久米仙」のボトルを飲む。おばさんは、最初の一杯だけ生ビール。あの人、足見て落っこったのは沖縄だったのかね。
ニンジンのしりしり、ゴーヤのピクルス、ジーマーミ豆腐、梅水晶、あと2、3品頼んだと思う。当然〆は沖縄そば。食い物は、全部うまい!
梅水晶だけは沖縄料理ではない(と思う)。サメの軟骨と梅干しを和えたものである。ネーミング、アイデアの勝利ですな。
おみやげに、サーターアンダーギー×2、スパムと玉子焼きのおにぎり×3をもらって、3,900円/1人。安い! 畏友その1のボトルを飲んだから安いのはあたりまえとお思いかもしれないが、新たに「残波」も入れたので、やっぱり安い!
安いうえにボリュームも十分で、翌日の夜、我がシェアハウスで並んだ一品、ニンジンのしりしり、ゴーヤのピクルス、梅水晶は昨日の余りものである。おばさんは、おじさんに、「おいしいんでもらってきた」と説明していたが、この説明には「残ったものを」というのが抜けているのをおじさんは知らない。
帰るときにはだいぶ混んできていたのだが、別室めいたところには店の人が誰も入れなかった。月に3回程度、我が畏友その1はその店に通っているので、耳が悪いのを知っていて、そうしてくれたのだろう。気遣いがすごい。
翌日、畏友その1からメールが来て、「次回は、向島百花園近くの『鳥増』にしよう」と言ってきた。このあたりは、おばさんもフランチャイズである。一軒では済むまい。
沖縄料理なので、『わたぶんぶん』(与那原恵)の話(畏友その1が教えてくれたのだ)もしたかったのだが、とてもそこまで手が回らないので、それはまたの機会に。
【Live】神さまの話0707
金曜日から、おじさん、おばさんは函館に行っている。競馬旅行である。羽田で残りの仲間と合流する。全部で10名程度。昼間競馬やって、夜は函館の飲食業界を荒らしまくる繰り返しの三泊四日である。皆さんが、神の怒りに撃たれないように祈るのみだ。これを投稿した翌日に帰って来る。だから、金、土、日は、我がシェアハウスは私の天下であった。三日天下とはよく言ったものだ。
土曜日(昨日)は、米寿記念で本をつくりたいというおじいさんが来た。この人は、奥さんを亡くし、3人の娘さんを男手ひとつで育て、その過程で霊的体験があり、受洗はしないもののキリスト者になり、そのことを本にして残したいということなのである。この話は、前にも『シェアハウス・ロック』でしたことがある。
その編集作業の大詰めをしようということだ。そういう内容の本だから、引用箇所が多々ある。
おじいさんは、なまじ頭がいいので聖書その他を憶えてしまい、記憶で書くので、大筋は間違っていないのだが、やはり記憶違い、勘違いがある。
聖書の引用は全部つぶせたので、今回の作業は残りの引用部分のチェック。残りは、カント(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)、シュライエルマッハ(『宗教論』)、W・ジェームズ(『プラグマティズム』)、ベルクソン(『道徳と宗教の二つの源泉』)、ユング(『無意識の心理』)、K・バルト(『ローマ書新解』)などである。
これらは、頭で宗教を理解しようという道筋であって、これに霊的体験が加わり、初めて宗教に至れるのではないかと、不信仰な私は思っている。私にはそれがまったくないので、いまだに宗教がわからないのだろう。つまり、信仰に見捨てられているのである。
でも、神がいるのであれば、「これだけサインを送ってるのに、まだわからないのかよ。しょうがねえな」と思っているのかもしれない。でも、わからないものはしかたない。わからないのにわかったというのは不正直というもので、神は不正直を嫌うだろう。不正直以前に、そもそも私が嫌われているのかもしれない。
それでも、片思いのようなものだが、宗教の話は好きで、聖書も不信仰の割にはよく読むし、宗教画もよく見る。「憐みの聖母」というイコンは(もちろん複製だけど)、机周辺に飾って、もう20年にもなる。
「受胎告知」も割合に好きな画題である。有名どころだけでも、20種類くらい知られているだろうか。そのなかでも私の好きな一枚は、シモーネ・マルティーニのものだ。
受胎告知は、大天使ガブリエルがマリアさんに告げるのだが、マルティーニの絵は相当にヘンで、まずガブリエルの表情がヘン。「あんた、妊娠してるけんね。神さまの子だけんね」(なんで方言なのかはわからないが、そういう顔をしているのである)と言いながら、マリアさんをねめつけている。あの顔、目つきは「ねめつける」という表現が一番近いと思う。
マリアさんのほうも、負けてはいない。「なーに、この人。やだー。ヘンなこと言っちゃって」という顔で応じている。受胎告知の絵のマリアさんは、歓喜に満ちた顔をしているのが普通である。
『ルカによる福音書』第一章三四節では、マリアさんは「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と答えている。これは聖書という場所柄、丁寧な言葉遣いをしているわけであって、上記のほうが実情に近いのではないかと、私は考えている。『ルカによる福音書』のほうが絵よりも先なんだけどね、あたりまえだけど。
ただ、すぐその後にマリアさんは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」(三八節)と言っているから、他の人の絵は、このときの顔なんだな、きっと。
こんなこと言ってるから、いい話(福音)は、私のところを素通りしちゃうんだろう。
【Live】都知事選0708
アメリカ大統領選で、「ダブル・ヘイター」という言葉が登場したことを新聞で読んだ。バイデンは嫌だが、トランプはもっと嫌ということのようだ。今度の都知事選は私も、「ダブル・ヘイター」だった。
まず、小池百合子は嫌い。ウソつきだし、弱いものいじめだし、都知事としてどころじゃなく、人間として嫌い。ウソつき、弱いものいじめはいくらでも例を出せるのだが、そんなことやってたら行数が足らなくなる。
五輪選手村跡地「晴海フラッグ」は、三井不動産レジデンシャルなどに約百二九億円で払い下げられているが、これは業界では「九割引き」とささやかれている。神宮外苑の再開発は、三井不動産が事業者代表である。これらは、都民ファーストの勢いが衰えた二期目あたりから、小池が自民党と手を組んだことによる。自民党と三井グループとの癒着は、よく取り沙汰されるところである。(『週刊文春』)
自民党とは一線を画すると言って、都民ファーストを立ち上げたのに、このザマだ。
また、「壮大な無駄遣い」と言われたプロジェクション・マッピングは、その一部を電通ライブ(電通の100%子会社)が受注しているが、五輪談合事件で昨年二月起訴され、電通は都から入札指名停止処分を受けているはずである。
まだまだネタはあるが、蓮舫のことを言えなくなるので、小池に関してはこのくらいにしておく。
蓮舫は、「悪夢の民主党政権」(©安倍晋三)(笑)のときの「仕分け」の印象が強烈で、あれで早くも私は嫌になった。例の「二位じゃいけないんですか」で、である。あれは、理化学研究所の地球シミュレーターの話だったはずで、あれは事態がまるでわかってない人間の言葉である。親が、オートバイを欲しがる子どもに、「自転車じゃいけないの?」という程度の知能、メンタリティである。利口な親なら、そんなことは言うまい。
私は、あの当時、地球シミュレータの8割くらいの能力のコンピューターを、たとえば中国ではUNIXマシンを数台連結して達成していることを知っていた。そういったことを言うならまだしも、あれは「無知を恐れない人間」の発言である。これは、バカの特徴でもあり、「ああ、この人は徹底的にダメだ」と思ったのである。技術的な目標には、その達成の過程でたくさんの副産物が生まれる。地球シミュレーターも、専用チップを開発したり、特殊なインタフェイスを開発したり、そういうことが重なってあれだけの予算になったはずだ。その乗数効果は非常に大きいはずで、そんなことがまったくわかっていない。しかも、テレビの取材が入っているところで、あれを言っている。気が利いたことを言ったつもりなんだろう。
昔、蓮舫はテレビのニュースショウのパーソナリティだかなんだかをやっており、その番組のなかで、なにやら難しげな、よくわからないコメントを長々と言うので有名になったことがある。
女性2人の漫才師がこれをネタにして、なにやら難しげな、よくわからないことをしばらくしゃべった後、「レンホー」と落とすネタをやっていた。ほとんどテレビを見ない私が知っているんだから、そうとう露出していたんじゃないかと思う。ピンクレディの『UFO』が流行った後のころである。後とは言っても、それほど後でもないだろう。あんまり時間が経ったら、ネタにならないからね。ああ、言うまでもないが、「レンホー」は「UFO」と同じメロディ(?)で言うんだよ。
【追記】
小池かよ。
【Live】『捕物帳』よりプライムビデオ0709
まず、別の話から。【Live】4連チャンは、当『シェアハウス・ロック』史上、初である。たいした史でもないけど、初は初である。別の話はここまで。
昔、こんな話をなんかで読んだことがある。
「日本の読書人は、若いころはカントだヘチマだ、ヘーゲルだヘッタクレだと言っているが、歳をとったら『捕物帳』を愛読する老人になってしまう」
ヘチマとヘッタクレは書いてなかったと思うけど、大意はこういったもので、それを読んで若き日の私は、「これはいかん」と古本屋に走り、端本で『半七捕物帳』(岡本綺堂)を揃えたのである。私は計画性があるので、老後に備えたわけだ。端本は、全集などで欠けが相当にあるものや、一巻だけ迷子になったようなものなどを指し、非常に安く買えるものだった。
捕物帳には、『銭形平次捕物控』(野村胡堂。これは「控」ね。「帳」でなく)、『人形佐七捕物帳』(横溝正史)などがあるが(他にもいっぱいある。有名どころでは、宮部みゆきさんも書いている。市場性があるんだろうなあ)、私が選んだ『半七捕物帳』はシャーロック・ホームズもの同様、「年譜」が書けると聞きかじっていたからである。たとえば『銭形平次捕物控』は「年譜」をつくっていくと、グチャグチャになってしまうそうだ。ようするに、それを読み、年譜をつくり、静かな余生を過ごそうと考えたわけである。淡い夢であった。
シェアハウスに移住する直前まで、その端本は老後に備えて持っていたのだが、おばさんも『半七捕物帳』を持っていたので、私の分は捨てた。これもシェアハウスのメリットだが、言う割にはたいしたメリットではない。
私は老人ではあるが、老成にはほど遠いので、いまのところ『半七捕物帳』は読まないで済んでいる。まだ、ヘチマにもヘッタクレにも興味があるし、老人の強い味方、プライムビデオがあるからである。私はテレビは見ないのだが、映画は見る。
三日天下の間、何本か見たなかに、『マグニフィセント・セブン』があった。
これは、『七人の侍』(黒澤明。1954年)が原作で、2016年のアメリカ映画。私が知っている俳優は、デンゼル・ワシントン、イーサン・ホーク、イ・ビョンホンの3人だけだった。残りの4人は知らない俳優さんである。
黒澤版は、七人の個性が見せ所のひとつだが、『マグニフィセント・セブン』のほうは、個性よりも人種。ブラック・アメリカン、ネイティブ・アメリカン、メキシカン、アイリッシュ、中国人。これだけで5人。これに南軍だったアメリカ人でほぼカバーされてしまう。
黒澤版では、あたりまえだが全員日本人だから個性を描け、『マグニフィセント・セブン』のほうは人種、その人物の背景などでほとんど個性は吸収されてしまうので、どことなく「粗い」印象が拭えない。また、黒澤版ではなんだかんだ言っても七人は「侍」で(三船敏郎演じた菊千代は百姓)、侍の矜持を持っているが、『マグニフィセント・セブン』のほうは単なる荒くれ者の集まりにしか見えない。まあ、荒くれ者の国だったんだから仕方ない。
もうひとつ、黒澤版では、「悪いもん」はただ単に「野伏せり」であり、その出自等々がわからないので、どことなく神話的な雰囲気すらあるが、『マグニフィセント・セブン』のほうでは「悪いもん」はボーグという男であり、こいつは十二分に悪辣ではあるが、しょせん企業家に過ぎない。これも、薄っぺらな印象を与える原因になっている。
ここらあたりに若干の不満が残るが、『マグニフィセント・セブン』は十分に及第点を付けられる映画である。
いずれ、この2つの映画の中間点である『荒野の七人』(1960年)を、また見ようと思っている。
【Live】すべからく0710
【Live】の記録更新である。
二回前の都知事選の話で、小池百合子を「嫌い」と明言したが、蓮舫のほうは「嫌になった」としか言っていない。「同じことじゃないか」と思われるかもしれないが、私のなかでは微妙にどころか、まったく違うのである。
私の人間観は、「人間というのは弱いものだから、悪いこともやるし、いいこともやる。だから、あまり嫌いにはならないほうがいい」というものである。このほうが人生が豊かになり、結局自分も得である。言うまでもないがこの「得」は経済的なことではない。ものごとが広く見られるようになるといったことである。よく、複眼的な視点と言うが、ある人を嫌いになるということは、「複眼-1」になることである。「嫌い」にならなければ、その人の視点を考えてみたりもするからである。
だが、そんな私でも、「こいつはダメかもしれない」と考えることはある。そのもっともわかりやすいリトマス試験紙が、「すべからく」という言葉だ。「すべて」と言えばいいところを「すべからく」と言う人は、私はだいたい「こいつはダメかもしれない」と思ってしまう。
有名どころを挙げれば、『帝都物語』(荒俣宏)の主人公・加藤保憲くんである。この人は紀州・龍神村の生まれはわかっているものの、生年は不明。全10巻程度のなかで数回「すべて」と言うべきところで「すべからく」を使っている。映画のほうでも言ってたな。
言うまでもないことだが、「すべからく」は「すべて」という意味ではない。「なすべきこととして」「当然」などと辞書には出ている。そして、「すべからく~」は「べし」で受けるのが通常である。
ブルースの歌詞で「dreams」と来たら「come true」と受けるのが通常で、それと同様。「係り受け」のようなものだ。
では、そういう人は、なぜ「すべて」と言えばいいところで「すべからく」と言ってしまうのだろうか。ここからはそう言ってしまう人の頭のなかを推測することになるが、まずは「自分が難しいことを言う人間だと思ってもらいたい」という期待があると思われる。「難しいことを言う人」=「頭のいい人」ではないんだけどね。まあ、そう思ってしまうんだろう。また、その程度のメンタリティなのだろうな。仕方ない。本当に頭のいい人は、難しいことは言わないものである。
次に、実際に難しいことを言うには勉強するなりなんなりして手間がかかるが、「すべて」を「すべからく」と言うだけだったら手間いらずである。手間対効果が大きい。これも魅力だ。で、「すべからく」になってしまうのではないか。
端的に言えば、楽で、ハッタリ効果が高い。前述の加藤保憲くんは帝都地下鉄(現在の地下鉄・銀座線)の工事を妨害するのに、自分でやればいいのにも関わらず、「式神」を使ってやらせるなどしていた。そういうことも含め、ハッタリの強い人であった。
前々回、
ニュースショウのパーソナリティだかなんだかをやっており、その番組のなかで、なにやら難しげな、よくわからないコメントを長々と言う
ので有名になり、女漫才師に「レンホー」とオチに使われた蓮舫も「すべからく」の人ではないかと、私はにらんでいる。
今回は、いつにもましてまとまりがないけど、暑いんでね。頭ん中も沸騰してるんだろうねと、お考えくだされば幸いである。