シェアハウス・ロック2410下旬投稿分
『里見八犬伝』1021
1983年に公開された『里見八犬伝』は、『新・里見八犬伝』(鎌田敏夫)が原作である。これは、『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴)の翻案といったものだ。
監督が深作欣二、脚本が鎌田敏夫、深作欣二。薬師丸ひろ子、真田広之、松坂慶子、千葉真一が出演している。製作は角川春樹である。
Wikipediaによれば、ストーリーは以下。固有名詞の読みがカッコ内に付されていたので煩雑なため外し、改行をした。それ以外はママ。
蟇田領主、蟇田定包は毒婦・玉梓の色香に迷い、酒池肉林と暴虐の限りを尽くしていた。苦しむ領民の意をくみ取り、里見義実は、彼らを討ちとったが、玉梓は最期に呪いの言葉を遺す。
まもなく、玉梓の呪いか里見家は隣国の軍勢に囲まれ落城の危機に瀕す。力尽きた義実は飼い犬の八房に「敵将の首を討ちとれば娘の伏姫を嫁につかわす」と戯言を投げかけ、その夜、八房は見事に敵将の首を討ちとる。
君主たるもの約束を違えてはならないと、伏姫を八房と共に山奥へと去らせるが、伏姫を取り戻そうとした義実の軍の鉄砲のせいで、八房をかばった伏姫は死んでしまう。しかし死の直前、伏姫の体から仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の各字を刻んだ八つの霊玉が飛び散り、伏姫は「百年の後、この光の玉は八人の犬士となって蘇り、里見の姫を奉じて玉梓の呪いに打ち勝つでしょう」と言い残す。
前回、多少ストーリーを紹介したところで、「これはストーリーの『核』であって、まだ『幹』にも至ってない」と申しあげたが、上記でも「幹」には至っていない。せいぜい「根」くらい。
Wikipediaには、角川春樹は脚本の鎌田敏夫に「『南総里見八犬伝』をベースに『レイダース』があり『スター・ウォーズ』があり『フラッシュ・ゴードン』や『アメリカン・グラフィティ』があってほしいと希望を出し」とあったが、角川くん、なにを言ってるんだろう。困った人だねえ。
親兵衛(ルーク)が静姫(レイア姫)を抱えてワイヤーで移動するシーンは、『スター・ウォーズ』へのオマージュだてえんだが、まったくもうの世界だね。
そうそう。これにも目黒祐樹が出ていたんで、びっくり。蟇田素藤の役なんだけどね。目黒祐樹には、私としては八犬伝役者の称号を贈りたいとすら思う。
ところで、先週の金曜日から日曜日まで、我がシェアハウスのおじさん、おばさんは、一行八名さまくらいで新潟競馬へ出張している。よって、この映画を金曜日の夜に見ようとしたのだが、アマゾンプライムではなく、別のサイトなんで諦めた。とりあえず別のサイトには簡単に行けて、無料なのだが、こういうのは見る(入る)のは簡単なのだが、抜けるのがけっこう大変なのである。
『里見八犬伝』に関する私の読書歴1022
1959年、小学3年のとき『里見八犬伝』を小岩東映で見て完全にイカれ、少年少女世界名作全集みたいなのの八犬伝を読み、ついで現代語訳のものを読み、次に原文で読んだ。
原文を読んだ時期は特定できる。中学二年から高校一年の間のいずれかである。イマイズミという同級生の父親が高校の国文の教師であり、彼の家からB5版くらいの大きさの上下巻ものを借りたのである。日本文学大系みたいのの一部だった。イマイズミ、国文の先生と言っても、今泉忠義さんではない。でも、親戚かなんかだった可能性はある。
少年少女世界名作全集みたいなのは、読んだこと以外は、まったく憶えていない。どの出版社のどのシリーズだったかを調べてもわからなかった。ああ、中身は憶えているよ。大塚、板橋、湯島天神、不忍池、国府台なんぞという馴染みのある地名が出て来る本を読むのは生まれて初めてで、それだけでも相当に嬉しかったことも憶えている。
講談社『里見八犬伝 少年少女古典文学館』(栗本薫訳)というものが出ている。だが、間違いなくこれではない。私が、少年少女世界名作全集みたいなもので八犬伝を読んだころは、栗本薫も、まだランドセルを背負っていたころである。
現代語訳も、誰の訳で読んだのかを憶えていない。白井喬二のものが一番有名であるが、白井訳でなかったことは間違いない。それを読んだころには白井喬二は知っていたので、もしそうなら憶えているはずだ。
よく、名作を少年少女ものでは読まないほうがいいと言う人がいる。だが、それは違うと思う。少年少女ものでも、読まないよりは読んだほうがいい。おもしろければ、いずれ大人向けの訳で、あるいは原文で読みたくなる。もしそうならなかったら、そうならなかっただけの話である。
話は変わるが、昔、同じような構造で、レコードのベスト盤は買わないほうがいいという人がだいぶいた。理由も同様。そのアーティストが気に入っても、ベスト盤でダブルので、オリジナル盤を買わなくなってしまうといった理由である。
これも間違い。ベスト盤でよしとしてしまえば、それはそれだけのことだったということである。
ここで無反省に、自分の性癖を人間全般に拡張してしまうが、知れば知るほどもっと知りたくなるという性向が、人間には必ずあるはずだと私は思っている。
曲亭馬琴か、滝沢馬琴か1023
馬琴自身は、曲亭と名乗っていた。曲亭馬琴で、「くるわでまこと(廓で誠)」となる。「傾城に誠なし」のパロディであるという説があるが、これはこじつけっぽい。馬琴は、そんなに粋ではない。朴念仁の骨格標本のような人である。
さて、曲亭馬琴か、滝沢馬琴か。
滝沢(本名)+馬琴は明治以降に流布した表記であり、教科書や副読本などで「滝沢馬琴」と表記しているのは誤った呼び方であるといううるさい人がいる。まあ、そうだけどさ。
うるさいと言えば、馬琴自身も非常にうるさい人であり、その姉さん女房であるお百も十分にうるさい人で、この家に奉公した女中さんは両面攻撃に耐えられず、頻繁にかわったという。亭主、女房双方がうるさかったら、使用人はたまらないだろうなあ。同情する。
25日から始まる映画でお百を演じるのは、寺島しのぶさんである。可哀そうに、いかにも口うるさそうな表情の写真しかパンフレットには掲載されていない。説明には「商売人の娘として生まれるが、馬琴の収入もままならず、何度も引っ越すなど、馬琴の勝手放題で家計が大変と思っており、愚痴が絶えない」とある。
一方の馬琴は、「頑固で頭が硬いが、戯作に情熱を燃やした作家」とある。これは、ちょっと馬琴役の役所広司さんの役どころではない。でも、名優なんで、大丈夫だろう。なんとかするに違いない。
「頑固で頭が硬い」を解説すると、馬琴は下級武士の家の生まれで、そもそも武士になりたかったようだ。また、医術、儒学を学んだという。このあたりにもうるささの萌芽のようなものが見える。威張って世渡りをしたいという、やなヤツなんだな、きっと。
後に、山東京伝の弟子格となり、そのつてで蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われるがそれを潔しとしなかったようだ。蔦屋では、どうさ引きなんかをやらされていたみたいである。どうさ引きは、版画用紙なんかにミョウバンを引くことだ。にじみ防止だろう。
前述のお百との結婚も、蔦屋や京伝に勧められたもので、お百はいまの築土八幡あたりにあった履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人であった。馬琴は、結婚後も会田姓を名のらず、滝沢清右衛門で通した。
結婚は生活の安定のためだったが、馬琴は商売に興味を示さず、手習いを教えたりしていたという。このあたりでも、うっとおしい人柄が透けて見える。寛政7年(1795年)に義母が没すると、文筆一本になり、履物商はやめた。
このころは、黄表紙などを書いても、版元が作者を一晩供応するだけでチャラというのが普通だった。原稿料なんてものを考え出したのは馬琴であり、ほとんど原稿料のみで生計を営んだ日本で最初の著述家が馬琴である。
このあたりにも、うるささ、細かさが見てとれる。まあ、私、友だちにはしたくないなあ。向こうでも断るだろうけどさ。
坪内逍遥の八犬伝批判1024
坪内逍遥は『小説神髄』で、八犬士を「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じ、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として『八犬伝』を批判している。
これは明治時代だからこそというところで、このころのインテリは近代バカみたいなのが多く、「近代偉いっ! 江戸時代ダメッ!」という風潮だったのだろう。上半身というか首から上は近代でも、まだまだ下半身は儒教道徳にずぶずぶで、そのずぶずぶを断ち切りたくて、坪内クンはこういう出方をしたものと思われる。
逆に言えば、これは当時、『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示していることにもなるのだろう。これを間接的に証言しているのが、内田魯庵である。
魯庵が読んだ『八犬伝』は、外曾祖父から伝えられた刊本、写本であったという。魯庵は、「私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流の嗜みがあるわけでもないただの俗人であった」(『八犬伝談余』)と言っているので、当時の馬琴(というか『八犬伝』)の人気も想像できようというものである。
ところが、私くらいの世代になると、うっとおしいものの代表としてその残滓はあったものの、儒教道徳なんぞというものは「うるせえなあ、ったく」程度のものであり、むしろ『八犬伝』はファンタジーの世界であった。
余談だが、そういう風潮を危惧したものか、私が小学4年かそこらのころに、道徳という課目が誕生というか復活した。誕生(復活)したものの、少なくとも私の教師は、その課目をきちんと教えられなかった。
たぶん、そのころのことだろうと思うが、吉本隆明さんは道徳教育なるものを皮肉って、次のような文章を書いている。
引用風に書くが、これは記憶による。だが、ほとんど間違っていない自信はある。
坂道を、荷物を満載にしたリヤカーを引いた父親が来る。子どもたる私は、その父親に出会ったときに、どう声をかければ正しいのだろうか。これが、道徳という課目の設問である。
「お父さん手伝いましょう」というのは、子ども(生徒)の本分は勉強なので正しくない。見て見ぬ振りも正しくはない。物陰に隠れるなどは論外である。
正解は、「『お父さん、大変ですね』と声をかける」というものだそうだ。
こんなことを自分の子どもが言ったら、父親は笑い死んでしまうだろうし、その前に、子どもを目撃した父親は、手近な薪ざっぽでも使って、自己流の「道徳教育」を施すに違いない。
私の教師が、その課目をきちんと教えられなかった理由もこのあたりにあるのだろうな。
あのころ、道徳教育を復活したメカニズムはどうなっていたのだろうか。調べてみる価値はあるな。岸信介あたりがあやしいような気がする。あそこんちは、自分はともかく、人に道徳押し付けるのが好きだからな。家風だな。
つまり、馬琴がいかに儒教道徳を力説しようと、もう私の世代では、『八犬伝』を単なるファンタジーとしてしか理解できなくなっていたのである。
『八犬伝談余』(内田魯庵)11025
前回の内田魯庵の「証言」は、『八犬伝談余』のなかに書かれていたたものだ。「青空文庫」で読める。こう書くと、いかにも私が昔からこの文章の存在を知っていたようだが、今回「八犬伝シリーズ」を書くにあたり、「もしや『青空文庫』に『南総里見八犬伝』はありはしまいか」と思い、探した過程で発見したものだ。底本は『南総里見八犬伝(十)』(岩波文庫)である。巻末解説みたいなものなのだろう。
(十)とあるので、別の巻にもこういった文章が掲載されていると思われる。老後の楽しみがまたひとつ増えた。
「八犬伝の歴史1020」で1959年の東映映画のお話をし、
前編の最後は、芳流閣の屋根に追い詰められた犬塚信乃を捕らえるべく、投獄されていた捕物の名人犬飼現八が起用されるが、二人は組み合いながら転落し、小舟の上に落ちる。
そこから利根川(と馬琴は言うが、これは江戸川だろう)を流され(ここまでが前編)、後編で下総行徳へとたどり着く。
と書いたが、この小学校3年生の感想とまったく同じことが『八犬伝談余』に書かれていたので、60年ぶりに憂さが晴れた心地がした。原文だと読みにくいので、多少リライトして紹介する。
信乃と現八とが組打して小舟の中に転がり落ち、はずみにもやい綱が切れて行徳へ流れるというについて、古賀からは行徳へ流れて来ないという説がある。※引き潮なら行徳へ流れないとも限らないが、※古賀から行徳まではかなりな距離があって水路が彎曲している。その上に中途の関宿には関所が設けられて船舶の出入に厳重であったから、大抵な流れ舟はここで抑留される。さもなくとも、川は曲りくねって葦などが密生しているから小さな舟は途中で引っ掛ってしまう。到底無事に行徳まで流れて来そうもない。
※で挟んだ間がわかりにくいだろうから、若干解説をする。つまり、古賀から利根川を遡行し、江戸川との分岐点に至り、そこから江戸川を下るという意味だろうと思われる。
でも、そうであるならば、「引き潮」(原文では「引汐」)がヘンだなあ。「上げ潮」ならわかる。もしかしたら魯庵は利根川河口から外海を行徳まで流されると言っているのだろうか。
いくら内田魯庵の口添えでも、それは無理だろうなあ。
『八犬伝談余』(内田魯庵)21026
「『里見八犬伝』1021」に、1983年の映画『里見八犬伝』のストーリーの紹介記事を書いた。これの出典はWikipediaである。
里見家は隣国の軍勢に囲まれ落城の危機に瀕す。力尽きた義実は飼い犬の八房に「敵将の首を討ちとれば娘の伏姫を嫁につかわす」と戯言を投げかけ、その夜、八房は見事に敵将の首を討ちとる。
君主たるもの約束を違えてはならないと、伏姫を八房と共に山奥へと去らせるが、伏姫を取り戻そうとした義実の軍の鉄砲のせいで、八房をかばった伏姫は死んでしまう。
鉄砲を撃ったのは金碗(かなまり)大輔であるが、内田魯庵はこの鉄砲に異議を唱えている。以下は、『八犬伝談余』より。若干リライトしている。
日本に鉄砲が伝来したのが天文十二年であるのは、小学校の教科書にも載っている。たといそれ以前に渡ったものがあったにしても、それよりおよそ八十年前に、房州の田舎侍の金碗大輔がドコから鉄砲を手に入れたろう。これを始めに『八犬伝』には余り頻繁に鉄砲が出過ぎる。
と言い、鉄砲が出て来るシーンを次々に、かなりの数列挙していき、とどめに、
(犬山)道節も宝刀をいぢくり廻して居合抜きの口上のような駄弁を弄して定正(これは敵方)に近づこうとするよりも、ズドンと一発ブッ放した方が余程早手廻しだったろう。
こういうと偏痴気論になる。
これは、私、文章で久しぶりに笑った。ご本人はまったく意識していないのだろうが、さんざんあそこの鉄砲がヘン、ここの鉄砲がおかしいと「駄弁を弄して」(笑)おきながら、「偏痴気論」がオチである。こういうのを「ブッツケオチ」という。
三笑亭可楽(八代目)の落語を思い出した。この人は、つまんなそうな顔をして出て来て、つまんなそうに噺をするが、中身はめっぽう面白い。
魯庵も、芸風が可楽に通じるのかもしれないなあ。
魯庵を調べるうちに、『魯庵の明治』『魯庵日記』が講談社文芸文庫で出ているのを知った。両方とも、山口昌男・坪内祐三編である。この御両人も、私ファンなんで、これも読んでみようと思っている。老後の楽しみがドンドン増える。
『八犬伝談余』(内田魯庵)31027
馬琴を、さんざん「うるさい」「うっとおしい」「友だちにはなりたくない」などとけなしてきたが、どうもそう思うのは、私だけではないようだ。
『八犬伝談余』より引く。例によってリライトもする。
古今、馬琴の如く嫌われているのは少ない。或る雑誌で、古今文人の好き嫌いという題で現代文人の答案を求めたに対し、大抵な人が馬琴を嫌いというに一致し、馬琴を好きと答えたものは一人もなかった。
ただ、現代人のみならず、その当時からして馬琴は嫌われていた。正面から馬琴に怨声を放って挑戦したのは京山一人であったが、少なくも馬琴が作者間に孤立していて余り交際しなかった一事に徴するも、馬琴に対して余り好感を持つものがなかったのは推測できる。
馬琴が交際していたのは同じ作者仲間よりはむしろ愛読者、殊に遠方の文書で交際する殿村篠斎のような連中であって、親しくその家に出入して教を乞うものではなかった。
面と向っては容易に親しまれず、小難しくて気ブッセイで堪えられなかったろう。とかくに気難しくて機嫌の取りにくかったのは、家人からでさえ、余り喜ばれなかったのを以てもその人となりを知るべきである。
「気ブッセイ」という単語を、落語以外で聞いた(見た)のは、私初めてだ。前回の「偏痴気論」とともに、これから常用するかな。ああ、そうそう、京山は山東京伝の弟である。
上記引用中、馬琴の交際相手として殿村篠斎が出て来るが、山東京山も『北越雪譜』を著した鈴木牧之と交際があり、馬琴も牧之とは親交があった。『南総里見八犬伝』には、越後小千谷の項で、同地で行われる「牛の角突き」が作中に取り込まれているが、これは『北越雪譜』からだろう。
また、八犬伝のストーリーを、私が「核」「根っこ」くらいしか紹介せず、このシリーズ中にきれぎれにしか書けなかった理由も、以下の文章で内田魯庵が説明してくれている。引用では「脚色」を現在の使われ方と違う使い方をしているが、意味は「ストーリー展開」くらいのことである。
『八犬伝』の脚色は頗る複雑にして、事件の経緯は入り組んでいる。加うるに、登場する人物が、それぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴んでいるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて、彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。
総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して、往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。
そうそう。このラビリンスこそが『南総里見八犬伝』の最大の魅力なのである。魯庵クン、ちょっとけなしているニュアンスもないこともないが、なかなかいいことを言う。
八犬伝余談1028
三回連続で『八犬伝談余』ネタだったんで、今回は余談。今回も、ちょっとラビリンスっぽい。
まず、「八犬伝の世界」の発端である。
嘉吉元年(1441年)、結城合戦で敗れ安房に落ち延びた里見義実は、滝田城主神余光弘を謀殺した逆臣山下定包を、神余旧臣・金碗八郎の協力を得て討つ。義実は定包の妻玉梓の助命を一度は口にするが、八郎に諌められてその言葉を翻す。玉梓は「里見の子孫を畜生道に落とし、煩悩の犬にしてやる」と呪詛の言葉を残して斬首された。
時はくだり長禄元年(1457年)、里見領の飢饉に乗じて隣領館山の安西景連が攻めてきた。
これが「八犬伝の世界」のプロローグである。全編で八犬士に次ぐ活躍をする金碗大輔は八郎の子どもだ。
ここまでは馬琴の創作の世界。ここからが余談で、「実の世界」の話である。
実の世界の里見氏の家伝では、里見氏の嫡流である里見義実が安房に入国したのが安房里見氏の始まりとされるが、このあたりはあまり定かではない。安房入国の事情、時期すら、諸説あるのである。
安房里見氏は戦国大名として成長して上総、下総に至り、江戸時代初頭には安房国を治める館山藩主となった。
慶長19年(1614年)9月9日、里見忠義に国替えが命ぜられ、安房国は没収、伯耆国に3万石を与えられ、倉吉に移ることとなった。
同年には下野国佐野藩の佐野氏も改易されている。外様大名の勢力を減じる徳川の政策の一環だろう。
忠義は倉吉の神坂に屋敷を与えられたが、代官山田五郎兵衛から引渡されたのは久米・河村両郡のうち4千石であったとされる。山田五郎兵衛、悪どいなあ。でも、本当に悪どいのは、家康、秀忠かも。
ただし、元和2年(1616年)には山田八幡、北野天神の二社を修造し、元和6年には山長大明神で社殿の修造を行っているので、隠し財産があったんだな。忠義クンもスミに置けない。
忠義は、元和8年(1622年)に死去。享年29。火葬され大岳院に葬られた。遺骨の一部は高野山の里見家代々の廟にも納められた。
このとき忠義に殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称される。彼らの墓も大岳院にあり、また倉吉から分骨した墓が館山城の麓に建てられている。
この「八賢士」を八犬士のモデルに求める説もある。川名登なんてえ人は、「この殉死した八人の話で、ふと『南総里見八犬伝』を思い出す。馬琴はどこかでこの八殉死者の話を聞いたのではなかろうか」などと言っているが、いくら博覧強記の馬琴であっても、この話は知らなかっただろう。
山田風太郎先生の『八犬伝』では、馬琴が知っていたことになっているが、この説が広まったのは『八犬伝』が一世を風靡してからだろうと思う。たまたま『八犬伝』の読者が倉吉にもいて、あるいは倉吉に縁のある人が『八犬伝』を読み、その人たちあたりから広まった話なのだろうなあ。
ところで、倉吉には「倉吉せきがね里見まつり」「倉吉里見時代行列」があり、この様子は倉吉市の公式ホームページで見ることができる。
『完本 八犬伝の世界』1029
筑摩書房のサイトで『完本 八犬伝の世界』(高田衛)を調べると、以下の文章が出て来る。
構想の雄渾、趣向の巧緻、文体の華麗、人物造型の玄妙、考証の厳密、エピソードの耽美・古怪。この長大な物語には欠けるものがない。豊富に付された口絵や挿絵もまた、本文と同等の工夫をもって配されているから、画文渾然、伏線は錯綜し、仕掛けは曲折して、作品全体がいわば一個の巨大な図解宇宙誌の観を呈する。謎は多く、秘密は深い。読者に最高度の学識と想像力を要求するこの種の作品を堪能するには、手練の周到な読みを俟つにしくはない。稀有の伝奇ロマンの魅力を、徹底的な細部へのこだわりと構想全体への目配りをもって論じ尽くす、著者積年の研究の集大成。図版多数。
『完本 八犬伝の世界』を私が読んだのは20年程度前だが、この文章はかすかに記憶がある。
『完本 八犬伝の世界』は八犬伝フリークにはこたえられない本で、「八犬伝世界のコスモロジー」といった趣がある。目次を紹介する。
謎とき『八犬伝』口上
第1章 伏姫曼荼羅
第2章 八大童子の幻影
第3章 唐獅子牡丹の系譜
第4章 漂泊の七人
第5章 悪女と怪物
第6章 母子神の物語―『八犬伝』第三部
第7章 曲亭馬琴 最後の戦い
第8章 星の秘儀空間
回外冗筆―「あとがき」を兼ねて
なお、上に「『八犬伝』第三部」とあるのは、「親兵衛の京都物語」のことではないかと思うが、読んだのが20年前なので自信がない。犬江親兵衛は、10歳に満たないながら朝廷への使節として派遣され、京都で大活躍をする。山田風太郎の『八犬伝』では、この犬江親兵衛のスーパーちび助ぶりが誇張され、しかも候文でしゃべるので可愛いことこのうえない。「京都物語」は、本編とまったく関連せず、場所も京都なので、なんだか「宇治十帖」のようでもある。
以下は、amazon.co.jpの『完本 八犬伝の世界』のところにあったコメントである。
今年90歳になる著者の作。なお高田の専門は上田秋成である。本書は「八犬伝」が書かれた背景、作品紹介としてはいいが、高田独自の説である八犬士を普賢菩薩の八大童子とする説は認められていないし私も認めない。特に、八犬士の犬江親兵衛をのぞく七人を北斗七星に擬しながら、親兵衛を副星とするのは不可解で、親兵衛は北極星とすべきである。その時、伏姫は豊玉姫になぞらえられ、親兵衛はニニギの命となり、金椀家は天皇家、里見家は徳川氏とする見立てが成り立つ。それについては私の『八犬伝綺想』に書いてある。(小谷野敦)
「親兵衛は北極星とすべき」は、私も同感であるが、それ以降は異議がある。文中にあるが、小谷野敦さんは『八犬伝綺想』を書いた方であり、この本も八犬伝フリークには必読。私も、読んでみようと思っている。老後の楽しみにはこと欠かないな。
【Live】衆院選の結果1030
「『八犬伝』1019」から「『完本 八犬伝の世界』1029」まで、八犬伝、馬琴の話が続いた。こんなふうに言うと、八犬伝、馬琴ネタは終わりと思われるかもしれないが、そんなに簡単に終わるようなお可兄さんではない。28日に映画『八犬伝』を見たし、映画を見に行く前に山田風太郎先生の『八犬伝』を予習していたので、申しあげたいことがまたいくつか出て来た。
前回、『八犬伝綺想』(小谷野敦)のお話もしたが、これも昨日図書館から借りられる手はずになったので、これを読んでから、また、まとめてお話しする。
八犬伝、馬琴と、愉しい話をしている間に、衆院選があった。
議席は与党175、野党191で、「政治とカネ」が焦点の選挙としてはまあまあである。まあまあというのは、もっと野党が躍進してもいいという意味である。
まず、この過半数割れで、自民党内部には、石破引きずり下ろし論が出ていると言う。なんという人たちだと思う。この惨状は、石破が代表選で勝利する以前の問題の結果だ。
裏金議員で、もちろん落選した人たちがいた。あたりまえの審判であるが、当選した人たちもいる。なんという選挙民だと思う。
あまりにバカバカしいので名前は忘れたが、「裏金、裏金とマスコミが言うから落ちた」と言い放った落選者がいたらしい。なんという落選者だろう。被害者のつもりなんだろうか。
私が暮らす八王子市は、萩生田光一の地元であり、立憲民主党は有田芳生を対立候補に立てた。萩生田77,000、有田71,000。有田は惜しくも敗れたが、噂では菅義偉が創価学会に協力を依頼したそうだ。その結果を私は追えていないが、これが成功したのであれば、6,000票差は、なんとなく納得できる数字である。
萩生田光一は、裏金議員のなかでも裏金が突出していたはずだ。そのため、その金額を垂れ幕に記し、それを持って萩生田の街頭演説を追いかけた人たちがいたという。
JR八王子の駅前だったか、有田芳生の演説直後に演説した萩生田は、言うにこと欠いて「よそ者には八王子を任せられない」と言ったという。私、もしその場にいたら「おまえにはもっと任せられない」と野次ったと思う。
私らの住んでいるところも八王子だが、選挙区が二つに割れ、私らのところは萩生田とは違う選挙区になってしまった。私らの選挙区の自民党立候補者は、街頭演説で「現在の物価の高騰は、プーチンがウクライナに攻め込んだせいだ」と大ウソをかましていた。多少は影響があるかもしれないけれども、主因はアベノミックスであり、円安誘導であり、大企業優遇であったことは論を待たない。円安で原油が相対的に高くなったことが、あちらこちら、農業にまで影響している。もちろん、こういうウソをつくヤツは落選した。
ひとつだけ、いいこともあった。東京都の選管によれば、期日前投票は219万人であり、八王子市は世田谷、太田、練馬に次いで11万5千人あまりで第四位。私も期日前投票に行った。期日前投票はお勧めである。すいているのがいい。
岩盤支持層以外にも選挙に、しいては政治に関心を持っている層がこれだけいるというのを示し続ける以外、この国がまともな国になる回路はないと思う。
【Live】衆院選の朝1031
衆院選投票日の朝、毎日新聞朝刊のコラム「時代の風」は、藻谷浩介さんの担当だった。「『取られ放題』でいいの?」という、刺激的なタイトルがついていた。「取られ放題」は税金のことである。
私のような年金生活者でも、年10万円程度は消費税を払っている。私の場合、たばこ税、酒税もバカにならない額である。
まともに働いて、まともに税金を納めている人は、そんな程度では済まない。「『ザイム真理教』(森永卓郎)読了1016」では紹介しなかったが、森永さんは江戸時代を例にして、「四公六民」(つまり、働きの四割は税金で持っていかれる)のうちはそうでもないが、これが「五公五民」になると一揆、逃散が頻発したと言っており、同書を執筆していた時期の税制はほぼ「五公五民」だと言っておられる。
藻谷さんは、「そんな税の仕組みを決めるのも、使い道を決めるのも、最終的には国会議員だ」と若干遠慮しているような物言いだが、私は、政治の本質は、国民から集めた税金をどう使うかということだと思っている。
藻谷さんは、同記事で「明日から日本政府は再始動し、以下のような構造的な問題に直面するだろう」として、三つの問題を挙げている。
①少子化
19年~24年の5年間で、東京都の15~44歳人口は3%減った。これは、全国平均の7%減よりは多少ましだが、出生率が高めの地方からの若者流入があるからだ。この供給源がいずれ途絶えれば、東京への流入も止まる。地方創生は「地方のため」だけではないのである。
「子どもが減った分、予算を削る」というのは愚かで、学校、医療には税金を投入すべきだし、出産支援は医療保険の枠外からの、重ねての税金投入が必要、としている。これは賛成。
こんなことを言うと、すぐ「財源は?}と返って来るだろうけど、「本来市場経済の中で闘うべき産業分野に公費を回すのを止めれば、財源はある」と藻谷さんは言う。これも賛成。
②エネルギー政策
これは、原発回帰を叫ぶのは、まったくリアリティがなく、省エネの進展と、再生可能エネルギーの普及で乗り切るしかないと藻谷さんは主張する。これには、異議がある。
③株価と経済成長のトレードオフ
これは、ドルベースの株価と国内総生産が連動していないところが問題で、昨今の「円安→株高」が、ドル資産の円換算の際の計算上の現象にしか過ぎず、実態としての経済成長をともなっているものではない、としている。これも賛成。
藻谷さんには、③を一番聞きたかったのだが、「回を改めて、数字と理由を説明したい」と今回は逃げられてしまった。