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俳句の源流を歩く|酒折の歌➆(全8回)

 酒折の歌の功績は、自問をも許容したこと。それは、想念が歌になるということを明らかにした。
 その瞬間、神々の計らいの産物であった和歌が、個々の内面を映し出す鏡ともなった。ここに歌は、人々が内包する「苦しみ」に関わり、「苦しみ」を和らげる道具としての役割を担い始める。
 起点となるのは、ヤマトタケルの辞世とも言われる思国歌。

倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭し美し
(大和は素晴らしいところ。幾重にも重なる青垣。山に覆われた大和の美しさよ。)

 この歌の画期的なところは、自らの視点で世界を捉えたところ。心の底を覗き込むようにして、麗しき故郷を発見したのだ。
 言霊 ――― それが、初めて心中へ事寄せた瞬間である。

(第15回 俳句のさかな了 酒折の歌最終回へと続く)

【画像は酒折古天神下から臨む富士山】
酒折宮の夜の雨は「酒折夜雨(さかおりやう)」として、藩主柳沢吉里から、「富士晴嵐」などとともに甲斐八景のひとつとして賞された。冷泉中納言為綱(1664年~1722年)の「暮ぬまに嵐はたえて酒折にまくらかる夜の雨になる音」が、甲斐八景和歌として取り上げられている。

【思国歌(くにしのびうた)】
日本書紀では、景行天皇17年3月12日に景行天皇が、日向で京都(みやこ)を偲んで以下の思邦歌(くにしのびうた)を歌ったとある。

愛しきよし我家の方ゆ雲居立ち来も
倭は国のまほらまたたなづく青垣山隠れる倭し美し
命のまそけむ人は畳薦平群の山の白橿が枝をうずに挿せ此の子

古事記では、病に苦しむ倭建(ヤマトタケル)が、三重の能煩野で以下の順で歌ったとある。

倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭し美し
命のまたけむ人は畳薦平群の山の熊橿が葉をうずに挿せ其の子(思国歌)
愛しけやし吾家の方よ雲居立ち来も(思国歌の片歌)

日本書紀での記述は国見の一環として歌われたことを想像させるが、そうなると、土地の者からすると国ほめに当らず、無理があるように思う。また、東方から雲が寄せていることを示し、荒天の予感がする。
一方古事記では、英雄譚の最後としてきれいにまとめ上げられている印象がある。そのために、現代では古事記の立場をとり、特に「やまとは国のまほろば~」は、ヤマトタケルの辞世として広く認識されているようだ。

いずれにせよ、「思国歌」というものが古くから歌い継がれてきたことは確かであり、歌の内容や位置関係も、ヤマトタケルの最後を飾るのにふさわしい。しかし、和歌の歴史においては、英雄伝の挿入歌以上の意味があったのではなかったかと想像している。それは、本文に述べたとおりである。