文学フリマ大阪の前日、大阪駅前ビルを歩いた。
大阪へは10回は行ったと思うが、梅田にある大阪駅前ビルすら堪能しきれていないということに気づいたので、先月開催された文学フリマ大阪のついでに立ち寄ることにした。
大阪駅前ビルは梅田ダンジョンの南側、JR北新地駅付近にある古風な高層ビルである。第一第二とつづき第四ビルまで連なっている。
このビルは以前から立ち寄ったことがあったかもしれないが、しかと認識したのは今年2024年の1月であった。
文学フリマ京都の帰り、お世話になっている評論系サークル〈アレ★Club〉の皆さんと飯を食べに行ったのだ。
今なお攻略できずにいる梅田の地下を、事務局長をはじめとした面子の背を追いながら歩く。
梅田は多くの行き交う人たちで賑わい、無論地下道にも多くの人々であふれていた。おしゃれな店が立ち並び、混み合いながらもウィンドウショッピングに勤しんでいる。
しかし歩を進めるとある空間から世界は一変した。
あからさまに天井は低まり、通路の幅は狭まった。
店と店の間隔も如実に縮まった。
おしゃれな地下モールを歩いていたはずなのに、いつの間にか路地裏に紛れ込んでしまったような気分だった。
人間を介したアルコールの臭いがよく似合う場所だし、大阪に慣れない人であれば引き返す選択肢が頭をよぎるレベルであった。
しかしよく看板を観察してみるとその多様さに惹かれる。
中華、ベトナム、フランス、韓国、タイ、ネパール、イタリア……世界各国種々様々な料理の店がそこにならんでいた。
鶏、牛、豚、魚野菜、果物。食材のバリエーションも多い。
もし地上のすべてが焦土と化しても、この場所さえ残っていれば食の文化は保存されるのではないかと思うほどであった。
「今田さんにはウマい店を案内しますよ」
〈アレ★Club〉の事務局長は、ビルの隅にある店を紹介してくれた。
ひもの野郎。その名の通り干物を扱う居酒屋である。
干物の居酒屋でやっていけるのかという疑念を抱いたが、しかしひもの野郎は第一ビルと第四ビルに進出しているという話を聞いて、僕は認識を改めねばならないと感じた。
実際、うまかった。
大根おろしと梅干しのお通しはもちろん、きゅうりの浅漬け、いぶりがっこ、のどぐろの一夜干し、鮭ハラス、炙りベーコン……
これらを口にして随分経ったが、思い出すと濃厚な薫りと共に旨味が舌を駆け回り、唾液が溢れ出る。
干物を小さくかじって日本酒を傾ける。
これを繰り返すだけで僕は大阪に来てよかったと思えたし、干物を求めて大阪を訪れる人間が世界にどれだけいるのかをふと考えた。
酒もうまい。
全国から選りすぐりを集めている。
好みを言えば店員からオススメの銘柄を紹介してくれるのもいい。
事務局長は大阪を訪れるたびにウマい飯屋を紹介してくれる。
梅田の付近では上記のひもの野郎をはじめ、寿司屋やフレンチ、ピッツァ、ほか諸々を訪れたが、どこもハズレがなかった。
(余談であるが難波にある中華茶房8という店も紹介してもらったことがある。24時間営業なのでいつでも立ち寄れる。ピータンをつまみ青島ビールを呷ると大阪に帰ってきたと感じるようになった)
駅前ビル内で紹介してもらった飯屋は数軒しかないものの、ウマい店はまだまだたくさんあるに違いない。
このビル群ですらこれなのだ。
天下の台所の懐はどこまで深いのだろうか。
「駅前ビルの魅力はここだけじゃないんですよ今田さん」
僕は充分満足だったのだが、彼は再び僕を連れた。
階段を登る地下一階。
天井は気持ち高くなるも、レトロな趣は変わらず、しかしどこか人の姿は少なくなり、シャッターの閉まる店舗がちらほらと伺える。
地上駅へ向かうとより顕著だった。
地下ではあふれるほどであった人々の姿が消え、ゴーストタウンのように感じられた。
これが平日であれば話は違っただろう。第一ビルなら12階分のビジネスマンがあふれているに違いない。
しかし休日の夜、このフロアは眠りについていた。
隅から隅まで人の姿のない廊下を呆然と見つめていると、事務局長はこころなしか胸を張って僕に言う。
「どうですか。これが大阪の中心です」
僕は大阪という街が好きになった。
がらんどうの通路であった。
天井の低さや廊下の幅の狭さも相まり休日の学校を思わせる。
年季と蛍光灯の光で空間全体が黄ばんでおり、天井から吊るされる案内板や壁に張られた掲示板は、昭和時代からまるで変わらない丸みのある字体の文字が散りばめられている。
……そんな体験が1月のことであった。
そして先月9月、文フリ大阪に参加するついでに僕は再び大阪駅前ビルへ訪れたのであった。
OMMビルのある天満橋駅付近から中之島を歩き、梅田へ向かった。
地図アプリを開かずにふらふらと歩くと、運良く大阪駅前第一ビルへ辿り着いた。
もっと迷うものだとばかり思っていたので、思いがけない再会に僕は戸惑った。
ひもの野郎を訪れる。
しかし訪れたその店は以前訪れたときと雰囲気が異なっていた。
以前見た店の内装は今風で広々していて、壁には日本地図が貼られ、47都道府県の酒が記されているのが印象的であった。
今回訪れたひもの野郎は細く長い店内で、親しみを抱く雰囲気があった。カウンター席に座りおしながきを眺めたところで、前回訪れたのは第四ビル本店で、今いるのは第一ビル店なのだと気づいた。
(第一ビルのほうが昔から感があるけれど、第四ビルのほうが本店らしいことに驚く)
土佐のお酒〈南〉を頼み、干物も目ぼしいものをあれやこれや頼んだ。
あっという間にカウンターは干物で埋まった。
一品一品がボリューミーで、しかも腹のなかでどんどん膨れていく。
思えば前回は数名でつついてちょうどよかったわけで、ひとりだと結構な量なのだ。
いや、しかし、食べたいものを好きなだけ食べられるというのは、なんと至福なことか。
山盛りのなめたけ、いぶりがっこのクリームチーズは乗せ放題。唐辛子を加えて味を変えるのだって自由だ。お通しに出ていた大根おろしのおかわりは60円。
高い一品もあるけれど、安くしようと思えばいくらでも工夫のしようがあるところも嬉しい。
こうしてひとりで再訪すると、他人と来るよりメニューとにらめっこする時間が増える。
新しい発見とハズレのない品。
素敵なひとときだった。
店内は賑わいをみせる。
18時を過ぎた頃だったと思う。僕のとなりにもお客が座り、カウンター席はほとんど埋まった。
テーブル席も埋まりかけている。
そろそろ席を立つにはいい頃合いだった。
一服したくなり、散歩することにした。
しかし、というかご時世と言うべきか、付近に煙草の吸える場所がない。
喫煙所めぐりも面白そうなので、JTアプリで目につく喫煙スペースをまわることにした。
しかしその最初の一歩で躓いた。
最寄りの喫煙所は駅前第三ビルであったのだが、外周を歩いてもそれらしい場所はどこにもなかったのだ。
アプリの不具合か最新ではないのだろうと思い、ふと空を見上げた。
狭い空ではあるけれど、どことなく開けた印象を抱いた。
3階に空中庭園があるからだろうか。
ふと、僕の求めるものはそこにあるのではないか。
そう思って、第三ビルに入った。
ビル内は静かなものだった。
背の低い天井は相変わらずで、人の姿は2階に至るともはやなく、3階は照明すら落とされ薄暗い。
この気配はOMMビルの上階とよく似た雰囲気だった。
ここが東京だったらよかれと思って立入りを禁止していても不思議ではない。
だがこの街はがらんどうのビルを歩く楽しみを提供してくれるのであった。
ガラスの重たい扉を開ける。
第三ビル3階の空中庭園は赤レンガの腰かけが並んでいた。
照明は暗く、しかしさほど不気味さを感じない。高層建築に囲まれ、そのいくつかの窓から光が発せられていたからなのだろう。
熱気が漂うものの、ビルの隙間を縫う風が心地よかった。
喫煙所はすこし歩いた先にあった。
だが「喫煙所」などという案内板はどこにもない。
ただ灰皿が2本置かれていて、スーツ姿の男性がふたり座っているだけであった。
しかも彼らはほかの喫煙所で見るように囲炉裏で暖を取るように灰皿を囲っているわけではない。
灰皿を中心にはしているが、彼らはそこから3歩ほど離れた位置で腰かけ、思い思いに口から白い煙を風に乗せているのである。
灰皿から一歩の距離に座った僕がむしろせっかちな人間に感じられるほどであった。
でも、まあ、いいや。やりたいようにやればいい。
ロングピースに火を着けた。
煙は舞い上がり、空を見上げる。
第三ビルは大阪でも屈指の高さを誇るらしい。
屋上展望スペースからの風景は格別なのだといつか耳にした気がする。
しかし僕は高いところにそれほど関心はなかった。
視線を落として空中庭園を眺めると、改めて不思議な空間だと感じた。
スーツ姿の男性はひとりがスマホを片手に画面を眺め、もうひとりは取引先であろうか、誰かと通話をしている。
その声を除けば静かなものだった。
目下の幹線道路では車が行き交っているはずだし、地下の飲食街ではアルコールに上気した人々が声を張って連れと談笑しているはずで、そしてビルの最上階には展望台からの夜景を見てエモーショナルを言葉であらわそうとしているはずなのに。
ここには寂しさすら感じさせる。
いい場所だ。
小さな声でつぶやいた。
喫煙所のことを言ったのか、駅前ビルのことを言ったのか、大阪のことを言ったのかは分からない。
しかしいい場所なのだ。
また堪能しよう。
この街は魅力にあふれている。
きっとまた来年もこの場所へ訪れるだろう。
ただ、今はもう少しだけこの風景を眺めたかった。
煙草に火を着ける。
火先の赤い灯火もまた、夜景の一部として僕の目に映った。