自遊工房
日々思ったこと 気紛れ日誌
南海部に天空路を開く会より、短いのを何か書け、と来た。何某かの一助になればと思う。
時々過去のことを思い出して、恥ずかしい思いをしたり、悔んでしまったりする。数々の間違いをし、恥ずかしい記憶が残っている。人生急降下中。いっそさらけ出してしまえば爽快かもしれない。残っていく者たちが反面教師としてみてくれれば、尚のこと。
人生の曲折 転んだ先をどう生きるか 老後の迎え方をどうするか
喪失から孤独。支えもあるが苦行のなかを生きる。そして再生へ。平成初期、医薬品卸は生き残りをかけて合併へ。どう存続させるか。人も会社ももがいてあがいて生きてきた。
70回目の誕生日を通過した。いまは70でも何ら珍しくもないし、わざわざ69や71と区別して祝うほどのものでもない。 こどもの頃の誕生日は必ず赤飯だった。赤飯がでると誕生日だと実感したものだ。他はいつもと一緒。今回もその習慣を継続した。妻や子供たちからは、普段なら選択外の高級ウイスキーをいただいた。 先日西田敏行氏がなくなった。76歳だった。あと6年か。70代の方の死亡報道を聞くと、最近非常に身近に感じてしまう。 選挙まであと3日。老年になって危機が増すばかりだ。ウクラ
米不足騒動も新米の時期になって落ち着いたようだ。我が家は実家から米を仕入れているので、米不足にはならなかった。 過去一度実家の田んぼのある地区全ての耕地整理工事をやった時、一年間作付けができない年があった。二年分の貯えを用意して米不足にはならなかった。 福岡にいた時、米不足がありタイ米を一度食べた。震災の応援もあって福島米を買って食べたし九重産のミルキークイーンも、新潟魚沼産コシヒカリも本場農家からいただいて食べたこともある。タイ米は遠慮したいがブランド米は確かに美味しい
朝ペットボトルのごみ出しに行った時のこと。 ここのマンションは一階部分の玄関が各部屋とも外部通路に面している。また一階だが、地上より1mほど高くなっているため、エントランスに上がるには階段か、長いスロープを登る必要がある。正面階段を上って左右、一階通路に沿って1mほどの擁護壁がある。 そのエントランス階段を上った右側擁護壁に、半袖の白い肌着にステテコ、部屋履きの薄いスリッパをはいた高齢男性がより掛かっていた。この時期半袖では朝夕は寒い。ごみ出しに行くときもチラ見したが、
政治に口は挟みたくないと思っていた。しかし、国会議員選挙や首長選挙は必ず行った。 裏金問題のことも、まさかこのまま終息させるつもりでいるのだろうか。岸田総理が就任する前に言ったことは、成長と分配であった。何が成長したのか、4万円の岸田所得税減額が分配だったのだろうか。 全てにおいて、いかがなものか、議論をせねばならない、と言ってきた石破氏。総理になりたくて38年積み上げてきたはずなのに、具体政策の一つも出せてない。石破氏の発言を過去に遡ってよく聞いていただきたい。彼は何
欲しい本はネットで買う。なぜなら行かなくていいし探さなくていい。翌日には届く。だがたまには書店ぶらぶらも。気になるのがあれば数冊購入。それも基本は文庫か新書しか買わない。なぜなら貧乏性に加えて本棚3つの許容量があるからだ。この日は二冊、一冊は伊丹十三氏のエッセイ。もう一冊が浅田次郎氏のこの一冊。 東京や大阪などの都会育ち、親の故郷とも縁もない、年会費35万円の高給所得者向けプレミアムカード会員だけが利用できるサービス。一回利用50万で、母の待つふるさとへ一泊二日で帰省でき
観光とは 観光へ行く目的は何か。普段見慣れないものを見る楽しみ。人々が多く集まっているから。有名だから。などなどいろいろある。根幹にあるのは、そこには楽しさがあること、だと思う。なぜ人が集まってくるのか。興味を惹かれる何かがあるからでしょう。 例えば京都。歴史で学んだ史跡や文化に興味を惹かれるから。大阪や東京なども同じ興味心だ。また享楽を味わえる施設があることも理由だろう。TDL(ディズニーランド)や大阪のUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)、海遊館など。人が吸い寄せ
活性化? 観光資源は? 豊後水道にクルーズ船を、という提言がありました。佐伯をどうするか、深く洞察されていることが伺え、平身低頭です。 故郷佐伯を離れ、遺産(何もありませんが)放棄もした者からすれば、故郷創生など常に思考の片隅でしかなかった。しかし佐伯は元気であって欲しいし、国内はもとより世界からも注目されてもらいたい。 個人的思考だが、他所から見て佐伯は元気がないように思える。中津のように企業が増えて人口増加がみられるのでもない。別府や由布院のように観光地で
この日はたまたま休みが重なったのもあって、長男夫婦に次男一家(次男、嫁、孫)が揃ってやってきた。夕食をみんなで囲んだ。正月は長男たちが仕事で揃わなかったので、久しぶりのことになった。息子たちの主目的は母の日だからだ。母である妻も、何をプレゼントされるより嬉しかったに違いない。息子たちはどちらもワインと梅酒と日本酒をプレゼントに持ってきた。妻の好きなものだ。 夕食は普通の家庭料理で特別なものはない。いつでも気軽に来られるように、たまに夕食を一緒にと寄ってくる長男夫婦も次男一
昔日を 思って気づく 古希の年 数年前から昔のことを思い浮かべることが多くなった。昭和の前半最後の世代として、このまま忘却のままでいいのかと思うようになり、noteを始めた。 南海部に天空路を拓く会の染矢氏は、天空路だけでなく、なんでもいいから書いて、佐伯を盛り上げよう、という。県外、市外者が騒いで、佐伯が盛り上がるか不明だが、既読者の名前が、何人か記憶の中にあるような気がする。 私は人の顔と名前を覚えるのが極めて苦手。同じ高校で同年生まれだから、同じ学年だったはず。
故柴田幸夫先生を偲んで 昭和の戦後から高度成長への間、山合の田舎の生活は大変厳しく、米がそのまま貨幣として通用した。それほど食料に不自由した時代だった。 男は思春期を過ぎ、精神と成人としての自立に到達するとき、必ず父親を対立軸とする。昔の生活台がそのまま彷彿させられる。共感、共感、共感。 透明性の中に、風景の無常観が浮かんで、過去の記録と感情の残片が高い文学性を持たせている。故郷と人の生き様の記録として、後世に残したい一書である。 その中にある言葉を引用したい。
堂ノ間供養塔 因尾物語<因尾通路斬の事> ―――主として大友興廃記による ――― 羽柴弘 <略>日州薩摩の武士、府内へ往来の時は、佐伯の内因尾という所を折々通路とす。 さる程に、天正十四年(1586)丙戌12月17日、佐伯太郎惟定の居城栂牟礼より、軍勢数多を因尾表に差向けられる。すなわち惟定の下知を受けたる因尾の武士、柳井左馬之助、同じく外記、同じく平兵衛、同じく弥右衛門、同じく兵庫ノ介、三代勘解由、柳井喜衛門、同じく弥右衛門尉、吉良舎人、杉谷兵部、同じく源次郎、
天空路を拓く会の趣旨にもあるように、郷土の歴史や文化を発掘検証し、後世に繋げていくことは重要である。 佐伯史談会という会があって、もう半世紀以上活動が続いている。当初からその事務局として、歴史を知る人を発掘し、記録を残す作業を生涯されてきた人がいる。原稿はガリ版印刷だった。小冊子だが年数回は発行されたと思う。羽柴弘氏である。教職についていた経験から、ガリ版は苦にならなかったのかも知れない。私も学生時代部活でガリ版に苦労した経験がある。佐伯史談一冊全部お一人でされていた
佐伯の自慢といえば、いろいろあるが、私は南海コレクションをまず押したい。この話は公開すべきなのか。少し考えてみたが、そのまま自由に公開されていたのだから、何も隠すこともないと思う。 詳細を初めて知った時は、昭和から平成へ移行する前後だった。私は当時佐伯に居住して、医療関係の仕事についていた。そしてこの病院の担当になり、驚愕したのだ。一階外来の待合場所に、どーんとあった奥村樗牛の絵画。国宝だぞ! それ以外にもいたるところにある名画の数々は、その専門家なら必ず戦慄を覚えるほど
二日酔いを初めて経験した日のことはいまだに覚えている。なぜなら初めて飲酒をした日でもあり、18歳の誕生日でもあったから。 高校三年の秋、私の誕生日に呼びもしないのに友人が三人、私の下宿を訪ねてきた。彼らが私の下宿に来たのもはじめてだった。 夕食を食べて二階の部屋にいた時、二人がやってきた。TZとTF。二人ともそれぞれ日本酒とビールを持ってきた。私の誕生日を祝おう、というのだ。コップなど部屋になかったので、私は下宿のおばちゃんに借りようと、階段をおりているところ