感性と理性

自分が受けた感動、それもたとえば芸術作品から受けた良い感動なら前向きに感情を込めて熱く語れることは素晴らしいことだと思う。

しかし同時に、この世の事実は感性だけで受け止められないというか、感じたことが全てだと思い込んでしまうと、客観的な事実を見落とすことになると思う。

もう記事が削除されてしまったし、何年も前のことだから引用もできないのが残念だが、こんなできごとがあった。

私は当時の友人に歌劇のCDを勧めたのだったと思う。
その人はSNSに感想を書いてくれた。
対訳を読まずに1幕の音楽を聴いたが、場面が全然浮かんで来なかった、という感想だった。

そんな当たり前のことがわからなかったのか!、ということに私の方が驚いてしまった。
歌われている言葉は外国語だし、仮に母語だったとしても発声や音程やリズムの関係で聞き取れないであろう。
それに舞台で演じる前提のものをあらすじも知らずに仕草もなく音だけで初めて聞いて、いきなり場面が浮かぶことなど、標題音楽であっても滅多にないはずだ。

……何が言いたいかというと、その人の感想は印象ではあるけれど、作品の内容を伝えるものではないし、そもそもの前提として作品を容易に理解はできないということ自体を、見落としている、あるいは評として誤謬に陥っているのだということである。

感じたことが事実の全てではないし、むしろ客観的事実に反する場合はままある。いわんや精神病者同士の間においてや。

後にその友人と、別の事故で不本意ながらは喧嘩になってしまった。
二人とも心を病んでいるので、二人とも事実の認識に二人とも問題がある。その人の勘違いもあるし、私の勘違いもあった。
もうハリネズミのように傷つけ合いたくないので、和解できるとは思わないし、それを願っても詮無いことである。
だが、せめていつか生きているうちに勘違いや誤解を解く機会だけは持ちたい。そうすることが、その人の傷も私の傷も癒えるための唯一の道、真実へたどり着くための理性的な手立てであると言えるだろう。