自称玲

妄想を止める薬を調整中ですが最近は正気な時が多いです

自称玲

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最近の記事

前向きになりたい

自分の間違いを正すために周りの人たちが支えてくれるのに、それでも後ろ向きになってしまうなんて、自分は何と大きな間違いを犯していることだろう。 ありふれた言葉だが、逃げちゃダメだ。 むしろ愚かさをひけらかさないといけない。

    • 誰とも争いたくない

      誰とも争いたくない 競争は世の中を悪くする

      • 人生はひとつだけ

        人生は一度きり だから貴重な体験は大事に心の中で温めて、安値で吐き出さない方がいい そんなことを周りの人たちを見ていて思う 人の心配だと力が入ってしまう だが 人生はひとつだけしか持てない 人に成り替わることはできないし、自分の人生を大切にしないといけないのかもしれない その意味で人も自分もわがままでありたい

        • 有名人の英語

          日本出身のアメリカで活躍する有名人が会見で英語を話さないのは恥ずかしい、と批判している人がいた。 その書き手自身は英語があまり得意ではないのだ。 だからもしその有名人が実際に英語を使ったら、今度はわからなくて困るはずだ。 英語を話せないことが恥ずかしいことなら、何故自分が話せないことは恥ずかしくないのか? 私は、自分が英語がうまく話せなくて困ることはあっても、恥ずかしいとは思わない。 自分が話せないのに話せない人を批判するその姿勢は、恥ずかしいというより理が通っていない。

        前向きになりたい

          評と娯楽

          美術展の入り口には、謝辞というか挨拶の掲示があって、その次の最初の作品の解説まで人がたまっていることがよくある。 時には作品そのものよりも、解説を読んでいる時間の方が長い観客もいて、貴重な宝を前にして本末転倒なものだと思ったことがある、かつては。 特に地域の学習型の博物館に行くと、展示そのものが印刷されたパネルに過ぎなかったり、本物の出土品ではなくて複製だったりすることもある。 しかし、興味深い主題というものは、たとえ印刷物であっても複製であっても、人の関心を引く価値が

          評と娯楽

          語彙と感受性

          想像力が豊かな人は墨絵の中に無限の色彩を見る。 想像力が足りないと白か黒かのゼロ百思考になってしまう。 だから、譲歩や留保つきの肯定がわからない。 簡潔な言葉遣いにも、その単語の元がやまとことばか漢語か、ギリシャ/ラテンなのかゲルマン系なのかなど、想像をかき立てる余地はあるだろう。 「人は見た目が9割」という本があった。これは決して「美男美女であれ」と説いている本ではなくて、身振りや態度などの第一印象が発話の内容より影響するという主題であった。 見た目ならぬ「聞いた耳も9

          語彙と感受性

          欲しいものもいつもはあふれていない

          名声や権力や金銭に興味はない。 魂の安楽だけを求めている。 裏を返せば、それだけ心が日頃から不安定なのなのかもしれない。

          欲しいものもいつもはあふれていない

          感性と理性

          自分が受けた感動、それもたとえば芸術作品から受けた良い感動なら前向きに感情を込めて熱く語れることは素晴らしいことだと思う。 しかし同時に、この世の事実は感性だけで受け止められないというか、感じたことが全てだと思い込んでしまうと、客観的な事実を見落とすことになると思う。 もう記事が削除されてしまったし、何年も前のことだから引用もできないのが残念だが、こんなできごとがあった。 私は当時の友人に歌劇のCDを勧めたのだったと思う。 その人はSNSに感想を書いてくれた。 対訳を読

          感性と理性

          善意

          自己肯定感が極めて低い私は、しばしば人の顔色ばかりうかがってしまう そして善意に満ちた笑顔さえ、時には裏を勝手に深読みしてしまう結果、恐怖の対象に変わってしまうことがままある そして人の親切を素直に受け止められない自分はなんてクズなんだ、こんなクズが善良な方々に迷惑をかけてないはずがないだろうとか、被害妄想ならぬ加害念慮にとらわれ、自分など死んだ方がいいなどと思い込んでしまうことすらある 幸か不幸か、過去には何度か死の淵から蘇った だが、ますます高くなっていく人生のハー

          宇野功芳と吉田秀和

          宇野功芳は合唱指揮者で音楽の実践家だった。だから器楽について一見断定的な口調で縦横無尽に何かを書く時も、現場感覚というか、音楽家同士がわかりやすい言葉でやりとりしているかのような安心感があった。 対して吉田秀和は仏独語に通じた言葉の世界の人だった。個人的に家でピアノを弾いた話などは本に出てくるが、人前で演奏する商売ではなかった。 だから人の音楽について知識人として語る時にも、「私はその道の素人だけど」とでもいうような、言葉を慎重に選んで描写しようとする謙遜があった。 やっ

          宇野功芳と吉田秀和

          欲深さ

          誰しも「自分はこうは思われたくない」という感情が何かしらあるだろう。 私の場合は「欲深だと思われたくない」という気持ちがことさら強い。 だがそれもひとつの欲なのかもしれない。 そしてそんなことを思っているうちは、自分が何をしたいか、自分でもわからないままなのかもしれない。 ネット以外だと、人付き合いにおいて、「承認されたい欲求」と「承認したい欲求」では後者が強い、主体的に承認したいという願望の方が強い気がする、私だけでなく、周りの他の人にも。 たとえそれが言い過ぎだとし

          躁鬱の病識を持つこと

          本当に繊細な人なら誰かを何度も怒鳴りつけたりしないのではないか? 怒鳴られた周期を数えて見たら数ヶ月おきだった。 躁と鬱の入れ替わる時期に立ち会ってしまっただけだと思っている。 けれども病識を持つのは難しい。 もしかしたら自分にもそのような病があるかもしれない。 だが、これだけは言える。 私はその時怒鳴りつけていない。

          躁鬱の病識を持つこと

          スコア・リーディング

          “楽譜を読んでいない”のではなくて、”読もうとしても読めない”の間違いだろう。そういう嘘をつく人に悪く言われてるのだと気づいたら少しだけ気が楽になった。

          スコア・リーディング

          “もう”ではなく”まだ”できないのだ、本当は

          老化を嘆くよりも、むしろ自分の性格が未熟であることの方を嘆いた方がいい。 未熟だから思い込みと客観的事実の区別がつかず、すぐにキレて怒鳴ってしまうのである。 老化のせいにした方が諦めがついて気が楽になることはあるだろう。 しかしそれは諦めるために諦めることであり、原因を外に求める他責的な思考である。 もうできないのではなく、まだできないのである。 あなたにはまだ努力による成長の余地がある。

          “もう”ではなく”まだ”できないのだ、本当は

          コンサート文化のマチズモ

          コンサートに行ってきて他の客のせいで集中できなかった、演奏は襟を正して聴くべしみたいな文章をまた読まされた。 そういうマチズモが嫌いだ。 ノイズが気になるなら最前列を買うなり、家で録音を聴くなり方法はいくらでもあるだろう。 そもそも大人数の客を収容するコンサートホールというのは、大人数の演奏者や大音響を聴きに行くために生まれたのではないだろうか? そしてそのホールの音響には音楽以外のものも含まれているのであることを、ジョン・ケージが明らかにしたのではなかろうか? 自分の聴覚過

          コンサート文化のマチズモ

          解説と理性

          コンサートや展覧会の解説を読まないことは恥ずべきことではないにしても、断じて誇るべきことではない。 そのように当てにもならぬ自分の感性ばかり頼みにして、他者の主張に耳を傾けない反知性主義でいるから、病気が治らず、被害妄想から抜け出せないのである。

          解説と理性