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その違和感は間違ってない。内なる獣を開放せよ。

時として感じる違和感。みなさんはこの違和感というものをどう捉えているだろうか。

私は、人生においてこの「違和感」を非常に大切にしている。それは自分の海外生活を通して身に着けたことのひとつである。

海外生活において、母国語でない言語で相手と100%のやり取りをすることは到底できない。どんなに言語に流暢な人物であっても、天と地ほどの開きがある。その時のスラングや隠語、または早口でまくし立てられたりすれば、あっという間に話についていけなくなる。歴然とした差がそこにある。

そういった環境下で、対峙する相手をどう判断するかは、自分の第六感をも頼るしかない。相手の表情や身振り手振り、目線や醸し出す雰囲気から、相手が信用するに値する人物かどうかを判断する材料とする。

たしか、佐藤優氏の著書「ズルさの進め」にも同じような指摘があったと記憶している。(佐藤氏はそれを「直観力」と表現していたかと思う)


そしてこれは海外生活だけでなく、自分の生活する母国、日本においても同じことがいえる。

相手から瞬時に感じる違和感。「なにか変だな」とか「なんか嫌だな」という感覚は大事にした方がいい。あながち間違ってはいない。

あなたにも身に覚えがないだろうか。なにか変だな、嫌だなと感じた相手からは、あとで振り返ると確かに「何か」があったことを。またその違和感は接する全員に対して感じるものではなく、ある特定の人に対して突如として発動されることを。

「違和感を大事にする」という信条がより強固になったのは、その後の人間関係の数々の場面で「あぁ、やっぱりか」と人生経験を積むうちに、それは私の中での真実になった。それは生きる上でのサバイバル能力でもあるといえるし、その感覚だけですべてを判断できるものではないのだが、信じるに値しないとは軽々しく言えない、ということだ。

大げさに言うならば、人類が太古より培った、DNAに刻まれた危険を察知する能力のひとつであるといえるのではないだろうか。言い換えるなら「野生の感」とでもいおうか。自分の内なる野生が、相手と対峙するその瞬時に「危険だ」と我が身に確実に知らせてくれるのである。

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