マリー・アントワネットは本当に浪費家だったのか。
はじめに
2024年7月に開催されたパリオリンピックの開会式が一時期ネット上でかなり話題になりました。
みなさま覚えていますか?
フランス最後の王妃、マリー・アントワネットを模した女性が登場し、首をはねたときに出たであろう血しぶきを再現したテープが飛び出す、という演出でした。
かなりショッキングな演出で、開会式のほかの演出でも疑問が残る演出もあったため、開会式の後SNSではかなり大きな反響がありました。
今回は、マリー・アントワネットがフランスに残したもの、そして本当に当時の国民に憎まれるようなことをしていたのか?をわかる限りで検証してみようかと思います。
マリー・アントワネットとは?
まずは、マリー・アントワネットとはどんな人だったのかを軽くまとめます。
マリー・アントワネットは、1755年11月2日神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)で生まれました。彼女のお母様はマリア・テレジアという方で、こちらもかなり有名な方ですね。
※ここからはマリー・アントワネットのことをマリーと呼称します。
マリーは1770年にフランス王太子であったルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)と結婚し、1774年にフランス王妃となります。
4人の子どもを授かり、幸せに生活をしていましたが、1789年に発生したフランス革命により、裁判を経て1793年10月16日に処刑されました。
と、ここまでがマリーの人生です。
また、オリンピックの開会式で女性の生首らしきものを持った赤いドレスの女性が登場したあの建物はコンシェルジュリーという建物で、マリーが処刑される前最後に収監されていた場所になります。
なぜ批判にさらされたのか
Googleで『マリー・アントワネット 風刺画』と検索すると、鳥のような足に尻尾と角が生えた女性?のような絵がヒットするかと思います。
マリーはフランスに嫁いでからなにかと人目にさらされ続けていました。王妃らしからぬ振る舞いを繰り返すマリーに、だんだんと批判の声が上がります。
と、いうのも、夜な夜な仮面舞踏会やら賭博などをしてみたり、自分の側近をお気に入りの人で固めて、ベテランの側近をどんどんとクビにしたりしていたのですね。
また、夜な夜な舞踏会などに出ていたのでルイ16世との間にもなかなか子どもを授からなかったことも原因だと考えられます。
また、ルイ16世から贈られた離宮を大規模改装してみたり、フランス宮廷のファッションを取り仕切ってみたり……。
と、このような感じで批判されるだけのことをしていたというのはあったかと思います。
本当に浪費家なのか?
ここからは少しだけフランス革命にも触れていきます。
フランス革命直前の1780年代後半、フランスの財政赤字は45億ルーブルになっていました。
この大きな赤字の原因は、ルイ14世のころから続いてきた戦争の軍事費が大きかったそうです。
ちなみに1781年の宮廷費と王室費は2570万ルーブルだったそうです。
そしてそのうち、マリーの衣装代が年間25万ルーブルだったそうです。(1785年)
2570万のうちのほんのごくわずかだったので、マリーが贅沢を尽くしていたのは事実ですが、マリーの贅沢によって国の財政が傾いた、というわけではないのでしょうか。
パンがなければお菓子を食べたらいい?
言わずもがなと知られた名言ですが、近年の研究でマリーがした発言ではないことが分かってきています。
この言葉の元ネタはルソーの著書だったようで、その本が書かれた当時、マリーは6歳でした。
「たいへん身分の高い」女性であったらしいのですが、結局この発言をしたのが誰であったかどうかは諸説あり、というのが最近の研究のようです。
まとめ
今回はマリー・アントワネットの浪費癖について考察をしてみました。
マリー・アントワネットといえば、よく日本国内でマリー・アントワネットにまつわるものの展示会をやっていたりしますよね。
2014年か2016年ごろに行った展示会では、マリーアントワネットが愛した日本や中国でできた食器などが多数展示されていて、まさか東洋の品がはるか遠いフランスに渡っていたなんて、と驚くと同時にセンスの良さにびっくりしてしまいました。
機会があれば、マリー・アントワネットのファッションに迫ってみたいものです。