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宮崎駿監督が「君たちはどう生きるか」で伝えようとした事〜スタジオジブリという社会の縮図と文明論

映画を観て一晩たって色々考えるうちに、改めて文章に書き起こしたいと思い、せっかくなのでそれも記事として残す事にしました。

一度観ただけなのでうろ覚えの点も多いですが、現時点で思ったことを書いていきます。これから観る予定の人で、先入観なしで観たいという人はここから先は読まないでくださいね。




さて、作品中の「下の世界」で、若者の姿のキリコが「振り返ってはいけない」と言っているシーンがありました。これはギリシア神話や日本神話など世界各地の神話にある見るなのタブーからの引用ですね。

それとこのシーンの前後で、ドルメン(巨石文明の遺跡)があるところの門の上部に、うろ覚えですが我ヲ學ブ者ハ死スというような文字が書いてあったと思います。學ぶ者は死す。つまり学ぶことがタブーだと言っているわけで、これも非常に意味深です。宮崎監督は何を伝えようとしていたか?

これには古代から現在まで続く「真実を知ることのタブー」が関係していると私は受け取りました。

そこで少し長くなりますが、まず古代から現在までの人類史のまとめから書きます。「それ、この映画と関係あるの?」と思うかもしれませんが私は大いに関係があると思います。それを知らずしてこの映画の本質に迫ることはできない位に。

人類はいろいろな失敗と試行錯誤を繰り返しながら、平和と繁栄のために知恵を絞って文明社会のあり方を変容させてきました。

人間の王が統治していた時代は、人々はまだ精神的に自由であり、自由であるがゆえに反乱を起こす者がたびたび現れます。その度に争っていては人類の繁栄は一向に進まないし、武力で支配すれば「争い」は無くなりますが、そんな世界はだれにとっても「幸せ」ではない。
この問題をどう解決すれば良いかと古代の賢者たちが考えた末に「神の概念による監視の内面化」という手法を発明します。わかりやすく単純化して言えば「神に逆らうと天罰が下る」というアレです。

そしてこれがユダヤ教のヤハウェをはじめとする一神教の起源だと私は考えています。このあたりの詳しい話については下記の記事に書きました。

この一神教の発明は諸刃の剣でした。間違った者がこの力を利用すると、人々を容易に洗脳支配して絶大な権力を手に入れられてしまうからです。古代の賢者の中でもたった一握りの本当の賢者だけが、その危険性を預言していました。例えば旧約聖書の中のイザヤ書に記されている、イザヤがそうです。

それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。地の果てから、歌声が聞こえる。
「主に従う人に誉れあれ」と。
しかし、わたしは思った。
「わたしは衰える、わたしは衰える。わたしは災いだ。欺く者が欺き、欺く者の欺きが欺く」

イザヤ書24:15,16

イザヤの預言は的中し、宗教は災いと化しました。悲惨な宗教戦争の時代を経て、支配欲を剥き出しにした大航海時代の頃からしだいに人々もなにかがおかしいと気付きはじめ、宗教の求心力と支配力が徐々に薄れていきました。
人々は宗教による支配ではない、真の平和と自由を求めるようになり、その結果生まれたのが自由主義/資本主義です。

しかし宗教の時代と同じ過ちを人類は犯しました。資本主義国は、他国からの侵略を恐れて軍事・経済の両面で他国を出し抜く事を最優先事項としました。そのためには、国民には有無を言わさず機械的に働いてもらう事がもっとも理想的です。ここで監視の内面化の心理学的理論をさらに高度に洗練させ応用した洗脳手法(愚民政策)が生み出されました。

国民は自分の意思がコントロールされているとは考えもせず「自分は自由で幸せである」と思い込んだ状態のまま、国の部品となって自由意志を持たないで生きるよう設計された社会です。苦しさは娯楽で紛らせるように仕組まれていて、反発心が直接国に向かうことはありません。この構造を破壊しようとする者は職を失い、社会的に殺されるので、責任が及ばない範囲で愚痴を言うだけで、この構造を破壊しようとは決してしません。

この愚民政策を、言葉にはできずとも心でその歪みを感じ取れてしまう人ほど、この社会は息苦しいと感じます。国が意図した通り、何も感じない方が幸せなのです。

この息苦しさを打開しようとした人々もいます。その人々が理想とする社会構造を理論化したモデルが社会主義/共産主義です。しかしこれらの国々は、宗教や資本主義国において「監視の内面化」が果たしている役割に気が付かず、それを自ら手放してしまいました。その結果、どの社会主義国でも国民が「自由意志」を持ち、彼らは国に不満があればすぐに行動に出るようになったため、国側はこれらを武力弾圧したり物理的に監視せざるをえない、初期の人類のような独裁社会に陥ってしまいました。独裁者は好き好んで独裁を目指すのではなく、監視の内面化構造を手放した結果として必然的に独裁化していくのです。

社会主義を経験した中国やロシアなどは実質的に資本主義へ舵を切り、その甘い汁だけを吸う進化(ある意味では退化?)形独裁社会になっています。

そしてグローバル経済は今や、学者や政治家を含む誰にも全体像を把握できないほど極度に複雑肥大化し、愚民化のシステムを内包する社会構造そのものが各国のコントロールを離れ一人歩きをし始めています。

ただの「構造」が、あたかも意思を持っているかのように人類から知性を奪い破滅に導きかねないこの様はまるで、ただのタンパク質が意思があるかのように脳をスカスカにし生命を殺してしまうプリオンのようです。

さて、長くなりましたが、これが私から見た現時点の世界の実像です。そして宮崎駿監督もこの実像におおよそ気がついていると思います。

若かりし頃の監督は、空想世界、理想の人物像をアニメの中に描いてきました。ナウシカやラピュタ、トトロなどがそうです。そしてこれは私の勝手な想像ですが、もののけ姫以後あたりから、監督は実はとても苦しかったのではないでしょうか?

ナウシカはまるで天使のように純粋無垢で最強。だから私含めてファンはその世界に惹き込まれます。パズーやシータや他のキャラクターたちも、ナウシカほどではないにしろ、皆天使のように純粋に描かれています。

しかし現実にはそんな人物はこの世にいません。完璧な人間なんて存在しないし、人間なら誰にでも光と影があり、影の部分を皆隠しながら生きているというのが実情です。キリストや釈迦など聖人と呼ばれた人々も人間である以上、影の部分はあったはずで、後世の宗教が彼らを「純粋無垢なアイドル」に仕立て上げたのです。その作られた聖人を盲信し崇め祀るように仕組まれたのが、宗教が支配した社会です。その結果「悪」や「不浄」を忌み嫌う風潮が生まれました。人間は誰でも善と悪の両面を抱えている本質的に不浄な存在という現実を隠した結果です。

宮崎監督は、ある時から、アニメの世界で自分がこの宗教界と同じ罪を犯しているという自責の念を抱くようになったのではないかなと。人々がナウシカやラピュタのような、わかりやすい冒険ファンタジーを求めている事を、監督も気が付いてはいたと思います。ファンだけでなく、ジブリ社員や鈴木Pもそれを求めていた。ビジネス的に考えても明らかにそちらのほうが客ウケが良くて収益増が見込めますからね。

しかし「ナウシカやシータのような純粋無垢な人間像が理想であり、そうではない人間の価値は低い」…そういった無意識的な刷り込みを人々に植え付けてかえって差別や分断や争いを生む、宗教界が陥った誤謬と同じことをしているという罪の意識、そして娯楽に目を背けさせ人間としての尊厳を奪う社会構造に加担する自分。その葛藤の中、ファンが期待する娯楽作品を求められ続けるジレンマに苦しんでいたのではないでしょうか。

「作りたくなくなったからもうやめた」と言えたらラクだったはずです。実際にもののけ姫以後から引退宣言を何度もしています。しかしスタジオジブリという大所帯を支える大黒柱なので、その度に、ジブリスタッフやその関連会社の人々の生活がかかっているという現実に直面し、彼らのためにまた新たな作品を作る。一方で、美しく見える虚構の世界はもう描きたくない。もののけ姫以後からテーマの抽象度が上がり、難解な作品が増えていったのもそれが関係しているのかなと。

監督は最終的に、大人の逃げ場になり得る虚構のアニメの世界ではなく、穢れたものと清浄なものが共存するこの現実世界を人々に直視させるべきなのではないかと考えるようになった気がします。勝手な憶測ですけどね。

そして監督の長編作品としては最後になるであろうこの「君たちはどう生きるか」で、人間のありのままの姿をストレートに描きました。主人公は自傷もするし人を買収もします。

毎回ファンが楽しみにしているジブリ飯を、主人公はまるで動物のように汚く、しかしおいしそうに笑顔で食べます。それとは対照的に、主人公が異世界に入る前の現実世界の食事は品良くきれいに食べ、そして「美味しくない」と言います。

監督の代名詞とも言える「飛翔」というモチーフを、今回の作品では鳥の姿で多数登場させています。その鳥がまたことごとく穢れた存在として描かれています。巨大インコは愚民政策によって生み出された、自分の頭で物事を考えない、魂を支配されていることにも気がついていない「幸せな」人々。ペリカンは生まれ出た純粋な魂を貪り食う「教育者」。インコを牛耳る大王は、資本主義と社会主義、双方の王を象徴しているように思います。

主人公の大叔父は、高畑監督であり、同時に映画監督「宮崎駿」のペルソナです。彼が積み上げようとしていた13個の石は、未来少年コナンから本作までの13本の監督作品です。主人公は13個目の石を積み上げるように大叔父から頼まれた時「その石はきれいすぎる。自分の手は汚れているからできない」みたいな事を言って断ります。もう皆が求めるような、娯楽として消費されるだけの「ジブリ映画」は描けなくなったし、描くべきでもない、ということをここではっきりと言っているわけですね。そしてこれは同時に、現代のこの世界の事でもあります。つまり「生命の尊厳に対する裏切り行為に加担しているとも知らないまま、魂を支配されたままでいいのか?」という問いかけです。その答えが何かは監督にもわからないけれど、何かが間違っているということをしきりに訴えようとしていると私は感じました。

監督自身がこれまでに築いてきたジブリの、清浄ではあるが虚構でしかないファンタジー世界を自ら破壊する事で、人々に「この穢れた世界の真実に目覚めよ」と言っている。そんな気がしました。

少しリアルな話をしますが、鈴木Pはジブリの予算を自分の愛人のために浪費し会社を私物化しているという報道がありました。この手の報道はまず疑ってかかるのが基本なので、鈴木P本人はこの件についてどう言っているのかを私も探しましたが、口を閉ざしているようです。「報道はウソだ」とは言っているようですが、何がどうウソなのかについては触れていませんし、ウソなら名誉毀損で訴えたほうが潔白が証明されるのにそれもしない様子。ということは本当なのかな?

また、宮崎監督が限られた時間と予算の中で、苦しみながらヒット作を連発しても、高畑監督と息子ゴロー監督の作品は常に赤字。極め付けに、高畑監督がジブリ史上ダントツとなる52億円もの制作費をかけて作った「かぐや姫の物語」が大爆死して多額の負債を抱えてしまったため、ジブリの制作スタッフは大量解雇、会社は内部崩壊寸前まで追い詰められることになりました。2023年現在では事実上すでに崩壊していると言っていいでしょう。

そのため本作はジブリではなく、ufotableや4°cなどの他のアニメスタジオが多数制作に関わることになり、図らずもその結果、宮崎駿をリスペクトする新進気鋭のアニメクリエイターたちが総力を結集して作り上げた形になりました。

持てる予算の全てを制作に注ぎ込み、宣伝費すら無くなったので、鈴木Pは「宣伝をしない」というていでうまく丸めた、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか。その上で、プロデューサーとして、ジブリファンがナウシカやラピュタのような夢と冒険に満ちた世界を求めていることを誰よりも知っているので、この作品の情報のいっさいを伏せて、事前に「冒険活劇ファンタジー」とだけ表現し、ファンの期待を煽るような匂わせ方もしています。この辺はさすが敏腕プロデューサーだなと思います。

と同時に、なんだか宮崎監督は映画版ナウシカの巨神兵で、鈴木Pは巨神兵が崩れ落ちそうになっているのに構わず王蟲を焼き払えと叫ぶクシャナのようにも思えてきます。

だからこそ宮崎監督は、最後の最後に、鈴木Pとファンが求めているものの真逆を徹底してこの映画の中に詰め込んだんじゃないかな。嘘つきの醜いアオサギ(詐欺?)はまさに鈴木Pです。けれど、そんな穢れたアオサギも、大切な友人だと主人公は言います。この主人公は「宮崎駿」のペルソナを脱いだ生身の監督自身ですね。自分もアオサギも共に穢れている、それが人間というものだということをありのまま描いているのです。

「宮崎駿」は「風立ちぬ」ですでに引退している事を示唆するためか、本作では宮「﨑」駿と名前の表記も変えています。

この映画は、ジブリ映画・宮崎駿監督作品というブランドを利用した、監督の魂のメッセージです。虚構の世界に幸福があると偽られ、その実、魂が殺され続けている現代社会へのアンチテーゼですね。その社会の縮図がスタジオジブリでもあるというのはなんとも皮肉です。

だとすると「我ヲ學ブ者ハ死ス」という言葉の意味もわかる気がします。知らぬが仏という言葉がありますが、実際、何も知らないで誰かの意のままに操られていた方が、個々の人間という単位で言えばそれが一番ラクで幸せに感じるのです。ジブリのファンタジーの世界に象徴されるような、虚構の世界に浸りながら寿命を迎える方がね。しかし、その幸福だけを追い求め続けた場合、人類全体を一個の大きな生命と見ると、この生命は肥大化・劣化し続け、シャボン玉が弾けるようにいずれ確実に内部から滅びます。映画の中で「このままでは滅ぶ」と明言しているシーンもありましたしね。

宮崎監督はこの世界のことを学んだからこそここまで苦しむ事になりました。知らないままなら、ファンが求める純粋な娯楽作品を作り続けて幸福のうちに一生を終えられた。しかし知ってしまったために、その時点で「アニメ監督宮崎駿」は死んだ。それを「我ヲ學ブ者ハ死ス」と表現したんじゃないかと思います。

これに似た戒めが、実は出雲神話の中にあります。これも過去記事で書いたことなので詳細は省きますが、個々人の幸福を追い求めて豊かな国を作り上げたオオナムチ=大国主命と、個人としては弱々しく短命に終わる事になっても人間全体を一個の生命体として種の永遠性を見ていたスクナビコナの対比です。

この伝承は、直接的な表現で表に出すことはできませんでした。文字通り「真実を知ろうとした者は死ぬ」時代だったからです。

そこで日本書紀とは別に国内向けの古事記ふることのふみの中にのみ、出雲神話としてあえて抽象的に描くことで、後世の人間に伝え残そうとしました。大国主命が破壊神マハーカーラ(大黒天)と習合されているのには極めて重要な意味があります。

映画に登場するヒミ(日巫?)は、貪欲なペリカンに食われる小さな魂たちを救うために、炎の術でペリカンを追い払いました。魂たちもその巻き添えになって焼かれてしまったが、生き残った少数の魂たちは無事に上の世界へと昇っていきました。

大国主命が破壊神と習合されている意味、つまり、古代の人々が虚構ではなく現実世界において経験し、なんとしてでも後世に伝えたかった真理を、宮崎監督は理屈ではなく魂で感得し、この「君たちはどう生きるか」という映画の形へと昇華させて、次世代を担う若者へバトンを託したのではないでしょうか。

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