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小学校で出会ったふたりの教師から受けた薫陶と影響の大きさについてふりかえる
はじめに
多感なこどもの頃、義務教育で通った学校の教師。彼らからは自らの人となりをつくる上でおそらくさまざまな影響を受けてきたはず。良しにつけ悪しにつけだれでもこの9年間はある。
ほぼそのまま納得のうえで伝授されるもの、かたや文字どおり反面教師として参考になるもの。
複数の教師との出会いのなかではぐくまれて渾然一体となり、ひとりの人間にそだつ。
いちばんわかりやすい自分の場合をふりかえり、教育の現場に立ちつづけている身として、どれだけの影響を受けてきたのか、そして基盤とさせてもらっているのか記してみたい。
教室にいつもいる父親のような存在
小学校では実質3人しか担任教師に出会わなかった。3年生から卒業まで父とおなじ年代の男性教師の担任が4年間と長かった。小学校の担任は自らの机を児童からみて向かって左側の窓際に置き、そこを陣地として作業していた。
この教師はまさに自宅の書斎と同様(一度おじゃました)、趣味のものまで持ち込んでいた。複葉飛行機好きで、精巧にできた模型飛行機を教室に吊り下げ、休み時間にはたばこをくゆらしていた。そう、当時の教室ではたばこを吸えていた。おおらかな時代だった。
もちろん機械好きなわたしを含めた何人かは、新たな模型や設計図が書かれた教師の本(これも持込み)の内容に興味を示し、さまざまたずねる。すると待ってましたとばかりに答えはじめ、ときにはつぎの授業時間がはじまっているにもかかわらずしゃべりつづけていた。
模範となる部分
その学校ではベテランの部類で、その学年の主任格でもあった。泳ぎがうまくプール開きではいつも模範の泳ぎを披露していた。
運動のなかでも泳ぎが苦手だったわたしはその教師にマンツーマンで夏休みのプールで指導を受けた。いつもは男子児童の何人かにむかうと、本気で怒る彼なのでわたしはこわごわだった。
たしかに手は緩めずのきびしい指導だったが、それでも温和に優しく接してくれた。
おとなしいわたしとガキ大将相手とでは接し方がちがうとあらためて知れた。児童みんなに平等に接する意味と、ひとりひとりちがう性格のこどもに合わせた指導のたいせつさを知れた。それはわたしが教える立場になってつくづく感じたこと。
大人の世界を垣間見る
昼休みの運動場でこの教師もよくいっしょに遊んだ。一度、クラスのひとりが教師とともに遊んでいるなかで肉離れをしてしまった。
それからどうしたかはよくおぼえていないが、けがをした彼はしばらく学校を休んでいた。
わたしは学級委員でクラスを代表して担任とともにふたりその子の家に見舞いとともにあやまりに行った。
いつもとちがい担任がこの子の両親の前で神妙に「しばらくギブスで不自由させてしまい・・・。」と小さくなっている姿に接した。
おとながおとなに接する場面にはなかなか接する機会がなかったのでそれ自体驚きだったし、教師が生徒にけがをさせたことの責任の大きさを考えさせられた。
家庭訪問で
どちらかというとわたしは内向的な子だった。もちろん、クラスのなかまとの三角ベースにはつるんで遊び、友だちの家にはおじゃまするぐらいは平気な程度。外遊びが嫌いなわけではなかったし、遊び始めると日が暮れかけるまで遊びにハマっていた。
それとともに興味をもっていたのが本。週刊漫画雑誌とともに学校の図書室の書棚をひとつひとつ読破していき、高学年になる頃には新刊書を待つばかりなぐらい。わりとある集中力と忍耐力だけがとりえ。
さて後者の忍耐力。時間をまきもどして1年生のときの担任は母親と同じほど。入学して1か月ほどした頃、家庭訪問だった。その日は放課後、その日担任の訪問するクラスメートの家を児童もいっしょにぞろぞろとついてまわる。各人が自分の家の場所を案内する。
わたしは自分の家の訪問が終わったあとも興味本位で、その日の最後の子の家まで担任についてまわっていた。教師がその最後の家のなかへ入っていくと、家の外にわたしはひとりだった。
夕方の陽が弱く低くなってきていた。家までは遠くないのでもう帰ろうかと思ったが、先生を待とうとひとり待ちつづけていた。
とても長く感じたが、ようやく担任は出てくると「あら、待っていたの。」と驚き、ぎゅうと引き寄せられた。途中までの道をいっしょに話しながら帰った。幼稚園になじめないままをひきずり無口だったわたしは、それ以来打ち解けてこの担任と話せるようになった。
理科への興味
この教師の担任は1年生のときのみ。その後は前述のとおり。わたしが理科委員会の委員(名称はよく覚えていない)で彼女は理科の専修でその委員会の担当だったこともあり、おりに触れてわたしたちにアドバイスしてくれた。
校内で2年間ほど天気、気温、風向、風速、湿度、雨量などを観測し、1階廊下の黒板に記録するように申し付けられた。
わたしは学校に来るとまず観測器具を抱えて屋上に行き、風向風力を測定、百葉箱で温度、湿度、その脇の雨量計の管理と欠かさずに記録をつづけた。
同時に校内の柳の木の芽の出方が知りたいという教師の申し出に答えるべく、日々のスケッチとともに観察記録を校内に展示した。わたしが校内でひまを持て余していたのかもしれない。こうした指導もすべて彼女の指導でおこなわれた。
教師のこどもたちを見る目
いずれも忍耐力のいる作業。わたしの性格をよく知っている。そこから興味をひきだしてもらえた。
一度、本を読んでいて疑問なことがあった。どうして地球上で方位磁針は南北を指すのか。調べてみたがよくわからない。そこでこの教師に尋ねた。
するといつもはいろいろと教えてくれていたはずの教師、しばらく考えて、今回は教えないでおこうか、中学にあがってしばらくすると習うはずだからそのときまで疑問のままもっておきなさい。ほかにもそんな疑問が湧いてくるから」という。
6年生もなかばの頃のこと。そろそろつぎの段階というわけか。わたし自身もこれには納得した。たしかに地球自体の内部構造や磁性のしくみ、さらにそれがなぜたまたま南北なのかなどは学年がすすまないと理解は容易でないし、ひとことで小学生に理解させるのは教師であってもむずかしい。
これだけ目をかけてもらえただけあって、理科への興味はますます増すばかりで、わたしはそうした疑問をあたまのなかにいっぱい詰めたまま、のちに大学では理学部を専攻することになる。
わたしが成人してのちに聞くと、彼女はその頃すでに理科部会ではこの地域では教育行政の重鎮のひとりで、のちに校長、教育長として活躍された。両親も教師の話になるとこの教師が話題の中心にあがる。
おわりに
やはり幼少の頃に接したおとな、とくに教師との出会いはわたしにとって大きい。教育の方面に進んだこともあって、児童生徒に接するにあたって、思い出しつつたしかああだったこうだったと参考にさせていただいている。
もちろん、むかしといまでは接し方にはこどもの人権や心理などにさらに注意が必要だ。いまでは通用しないことも多い。
それでもこどもたちを目を細めておおらかな気持ちで接してくれていただいていたのだなと感じずにはいられない。日々の教育に追われつつも、こどもたちのはるか先の将来へ思いを描きながら、わたしたちは薫陶を受けていたのだなと思う。
感謝このうえない。