山登り つらつら思い 綴るの記⛰️
埼玉県飯能市の山を歩くのは楽しい。
低山ばかりで高い山はなく、あっても1000m程度だ。
飯能で歩いているかぎりでは山好きの猛者たちからはアマちゃんのにわか登山者扱いしかされないが、そんなことはどうでもいい。
山はひとつの宇宙だ。
その関係性にすっぽりと包まれるようにして、人間はなんとなく登り、下り、湯に浸かり酒宴を開いて気分が良くなる。
空に雲に太陽、それぞれ目には見えない土中の糸状菌と木々や草花たちのコミュニケーションが、私を嬉しい気持ちにさせるのだ。
しかし、時折り触れることしかできない貴重な雑木林の広葉樹林帯に差し掛かった時に感じる一抹の不安を無視することはできない。
無論のこと雑木林が私を不安にさせるのではない。むしろそのあまりに調和のとれた有様から対比して、人工林である針葉樹林帯の不自然さと人間の無責任さに不安を覚えるのだ。
戦後、国策で日本の山々を人工針葉樹林に変える拡大造林計画がおこなわれた。
しかし、そのうちエネルギー革命が起こり、燃料は木材から石炭、そして石油に変わった。
続いて木材の輸入自由化がおこなわれ、国産の木材は安い輸入材に押されて売れなくなった。森林整備に携わる人がいなくなり、森林は放置され、水源涵養機能が低下し、斜面は不安定になっていったのだった。
古来から日本の山々は広葉樹がしっかりと根を張ることで、根と菌糸によって土を支え降水を貯めてきた。
菌根菌は植物の根に菌糸をからみつかせ、樹木から光合成による炭水化物をもらうと共に、それを栄養源にして菌糸を土壌中に伸ばし、窒素やリンをかき集めて樹木に送るという共生関係を保ってきた。
また菌糸は、土壌中で有機態窒素を無機態窒素に変換し、作物が吸収できるようにしている。ちなみに、この糸状菌と作物の関係性にあやかる自然農法こそが私が挑戦している「菌ちゃん農法」である。
この森林のエコシステムが荒廃することで、自然の機能が壊されて山や斜面の保水能力が失われてきたのだった。
森は「緑のダム」とも言われる。
雨が降っても雨水は森林の土壌に一度蓄えられ、地下水となって徐々にしみ出し、河川に流れていく。
1時間あたり50㍉から100㍉程度の雨なら、それを蓄える力は十分にある。これを広葉樹林に比べて保水力の少ない針葉樹林に変えてしまったので、河川に大量の土砂が水と一緒に流れ込むようになり、河川の氾濫が起こるようになった。昨今の災害に思いを馳せてほしい。
とくに杉は、実生ではまっすぐに地下深く延びる「直根」があり、そこから根を広げるが、苗植え植林の場合は根がたいへん浅い。
つまり山を杉だけで植林してしまうと、崩れやすい植林地ができあがることになる。
最近は関西方面にご縁があり、私自身、関東では感じられない人や町から滲み出る歴史的な深さの雰囲気に夢中である。
そんな関西地方の歴史を見てみると、遣唐使を派遣していた7世紀から8世紀にかけての100年間で、4回もの遷都がおこなわれた。694年の藤原京に始まり、平城京、長岡京、そして794年の平安京だ。まさに私の大好きな最澄、空海の時代だ。
中国に対して日本も進んだ国だと示すために、唐の長安にならった条坊制の都市を建設し、内裏や太極殿、官舎を建て、神社仏閣の造営をおこなった建設ラッシュの時代である。
そして、この時も建設ラッシュのために大量の樹木が山から切り出された。奈良盆地からは大木が消え、湖南アルプスや田上山(いずれも現在の滋賀県)はハゲ山となり、山の荒廃が進んだ。今でも、木を植えても砂状になった真砂土が木の根と一緒に崩れるような土地である。湖南地方の河川はほぼ天井川(河床が周囲の土地より高い)となり、河川の氾濫が頻発した。
その後、天下統一した豊臣秀吉が、大阪城築城のために神戸の六甲山から大量の花崗岩を切り出させた。
また、「武庫山(現在の兵庫県宝塚市)の樹木伐採勝手足るべし」という布令を出し、地元住民に樹木の伐採を自由におこなうことを許可した。ある意味では町民にとってやさしい政策だったのかもしれないが、その結果、住民が樹木伐採だけでなく、下草や落枝、落葉まで持ち帰って燃料や堆肥にし始め、六甲山もまたハゲ山になった。こうして江戸時代以降、大規模な土砂災害や洪水が多発したのだった。
植物学者の牧野富太郎は1881(明治14)年に六甲山のはげ山を見て、「はじめは雪が積もっているのかと思った。土佐の山にははげ山など一つもないからであった」と記している。
淀川も流出する土砂の量が多いため、明治になっても大阪港が建設できないほどだった。昭和になってからも、1938(昭和13)年に阪神大水害が起こり、死者・行方不明者約700人、被害家屋約12万戸という大きな被害を出した。
これに対して、明治政府によってオランダから招かれた土木技師、ヨハネス・デ・レーケが現地を視察し、氾濫をくり返す河川を治めるため、根本的な対策として水源山地における砂防、治山の工事を重要視するよう訴えた。具体的には、湖南アルプスに木を植える作業から始めた。山を守ることが水害を減らすことなのである。デ・レーケの砂防工事は、1100年以上前の首都建設による森林破壊の修復工事だった。こうしてデ・レーケは「砂防の祖」と呼ばれるようになった。
よかれと思ってやった開発や法制度が、のちに大きな災いを招いてきたのが人類史だ。
開発と災害は両立できないトレードオフの関係にある。災害を発生させないためには開発をやめなければならない。開発や開発を推進する法制度には、わかりやすい目先のメリットがある一方、災害となって後世に禍根を残し、長期にわたって人々を苦しめるデメリットがある。「安全神話」を振りまいた原発を思い出してほしい。そして、失敗に気づいても元に戻すことはできないのだ。
環境破壊で極めつけの例は鉱山開発ではないだろうか。表面の伐採、掘削どころか深いところにある鉱物資源が採れる深さまで広範囲にわたって掘り広げるのだ。ハゲ山どころの話ではない。笑いも感動もない負の”アースワーク”だ。
2017年に行ったフィリピンのパラワン島はとても美しい島だった。昆虫好きの私にはパラワンオオヒラタというクワガタの生息地として憧れの地でもあった。
そのパラワン島にはリオツバ鉱山という鉱山があり、開発を40年余りおこなってきたという。鉱物の製錬時に出る六価クロムという有害物質で地元原住民は皮膚病に侵されているが、放置されているのが現状だ。
世界の鉱山でも同じく数十年間大規模に露天掘りで採掘をして、その後環境回復に「とりくんでいる」というところはあるが、環境回復が完了した事例は人類史上にいまだ一例も無いそうだ。
地球上ただの一カ所たりとも、大規模の環境破壊をおこなって元に戻せたところはないらしい。つまり、回復できる保証は一切どこにもないのだ。
一方で、鉱山会社各社は積立金制度を作り植林もしている。有名な鉱山で、テーリングダム(要は製錬時のゴミ捨て場)が決壊しないように維持しているところもある。しかし、多くのところで積立金は枯渇し明確な打開策はとられないまま環境破壊と人権蹂躙だけが進行している。
現在のように一家で何台も車を持っているような大量の消費状況が、そのまま電気自動車に移行するとなると、間違いなく今後、鉱山開発は益々悲劇的な状況になるだろう。
SDGsと銘打って消費の矛先を変えるだけで環境破壊を乗り切ろうとしているが、そもそもの大量生産・大量消費型の生活スタイル、生産スタイルを変えなければ地球のエコシステム崩壊の前に人類の生存自体が危ぶまれる。
ちなみに今回テーリンダムなるものを初めて知ったのだが、採掘した鉱物資源の製錬において製錬所で鉱石を化学反応させて純度を高める過程で大量の廃棄物が出る。それをテーリング(鉱滓)ダムにすべて投げ込むわけだ。
そしてテーリングダムに沈めた廃棄物のうち、一定の時間をおいて上澄み液をパイプラインを使って海まで運び、海に排出しているのだが、そのパイプラインを通す桟橋をつくるのにサンゴ礁が破壊されたという漁民の報告もある。
さらに製錬所を動かすためには電力が必要なため、そばに自家発電の石炭火力発電所があり、その石炭はインドネシアから輸入している。
しかしその発電所はあくまで製錬所のためのもので、パラワン島の先住民族が住む地域には電気が通っていない地域がある。
また製錬をするには中和剤として石灰石が不可欠だが、それも近隣の先住民族が生活を営む地域から採掘して持ってきている。そのため以前は木々が生い茂る丘だったところが、採掘のために樹木がすべて伐採されて平らな土地に変貌してしまった。
このように、世界中で行われている個々の欲望を満たすためだけの環境破壊において、地域を壊して連帯を無くし、コミュニティを破壊して他者との関係性を断ち切り、集団性そのものへの関心を剥奪するという、統治権力には合理的なこうした判断も、結局はなされるがままの小市民の実際の生活に全て跳ね返ってきている。
都市部を支える山間部や田園地帯などの田舎でこそ実害は顕著であり、そんな健気な被害者たる彼らが支える都市部の生活者や富と権力を持つ者たちの生活には殆ど目立った支障は起こらない。
故に僻地や田舎の災害は現実として共感を呼ばず、延々と何も変わらずにただただ現状は悪くなっていくばかりのようだ。
ただ一つ、僻地や田舎に住まう人々の「気付き」だけが彼らの生活を救う鍵ではあるが、結局のところ民主主義制度において地域で選ばれた権力者たちがその現実を誘致しているという現実はここ100年ほど放置されたまま常態化が続いている。
嘆かわしいとは思いつつも、私はもう怒りを覚えない。
なぜなら、厳しくも「気付き」は個々に委ねられたものだからだ。
我々は辛さ、厳しさから「気付き」を得ていかなければならない。
自然は常に人間にそれを教えてきた。それがたとえ慣れ親しんだ故郷の環境破壊、親しき者たちの死などに黒く塗り込められたものであっても、それらに「耐え、忘れる」という無限スパイラルから自らの「気付き」によって抜け出すしかないのだ。無論、その先にはこれまで溜め込んできてしまった負の清算とばかりに、更なる戦いが待っていることだろう。
もはや忍耐では乗り越えられない。気合いと根性も打ち砕かれるという大きな現実の壁に気付かなければならない。
そして我々都市部に住まう者たちも、僻地や田舎に住まう者たちにそれら忍耐を押し付けることでは乗り越えられないという事実に気付かなければならい。
何事も他人任せにせず、他者と協力して今を生きていくこと。
結局は太古の祖先が選択したその生き方こそが、この地球における我々の生き様としての最適解だったのだと私は考えている。
※参考: 長州新聞