『草枕』超難解エッセイ

なんやかんやと日々悶々としている東京の画工(画家)がいる。画工はそんな日々から脱出するきっかけを得ようと片田舎の温泉街を訪れる。その滞在記が本作『草枕』(夏目漱石、岩波文庫)である。

職業こそ違えど、画工は完全に漱石自身がモデルである。
本作のほとんどは画工の芸術論や人生論の「脳内一人語り」に費やされ、登場人物間の会話は一割程度である。
そして、この一割でストーリーが構成される。
本作全体におけるストーリーの意味や効果の大小は読者によって異なるだろう。しかし、ラスト数行の畳みかけは流石である。
『坊ちゃん』の美しすぎる最終文「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」が漱石の鮮やかな筆力によるものなら、本作のラスト数行は強靭な腕力によるものといえよう。

が、それでもなお、概ね、漱石自身によるエッセイ本なのだ。

そして、これが超難解。
例えば芸術論のくだり、
「芸術家は無数の琳琅を見、無上の宝璐を知る。俗にこれを名けて美化という。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎として昔から現実世界に実在している。ただ一翳眼にあって空花乱墜するが故に、俗累の羈絏牢として絶ちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼る事、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。」(38ページ)

このような感じで「脳内一人語り」が押し通されるので、私にとっては行である。しかし、必ずしも苦行ではない。

俳優・堺雅人氏が『情熱大陸』(毎日放送制作)にて、なんかわかんねぇなぁ、と思いながら難しい本を読むのが好きだ、というようなことを言っていた。
私はその行為が大好きだとは言えない。が、たまにはいいよなぁ、とは思える。
そんな本に出会うと、世の中にはわからないことだらけだなぁ、と思う。
それは内容そのものに限られない。
例えば、当時の読者は上記のくだりを、フムフムと当たり前のように理解していたのだろうか?
わからぬ。
そして、本作では主人公/漱石の画工/物書きとしての自負と美学と煩悶がこれでもかというほど述べられている。
同時代の読者はそれを熱く受け取れたのだろうか?
これもわからぬ。
しかし、漱石が漢詩・俳句・海外文学、絵画全般から宗教までなんでも知る、とてつもない教養人であること。
これは厳然たる事実である。

さて、この事実を肴に最後にクイズを一つ。
以下は同一対象を描いた二つの表現ですが、この対象は何でしょうか?

「暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥邈の戸口をまぼろしに彩どる中に、眼も醒むるほどの帯地は金襴か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分ごとに消えて去る。燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥いる趣である。」(86ページ)

「片鱗を潑墨淋漓の間に点じて、虬竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるが如く、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具えている。」(96ページ)

正解がわかった方、お見事。漱石張りのインテリゲンチャです。

正解を知りたいと思った稀有なマニアな方、是非、本作を手にお取りください。

読むのを途中であきらめた方、極めてノーマルだと存じます。何卒、ご安心ください。

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