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今日も、逃げるように退勤する
8時半に始業したその瞬間、
時計の長針が12を指し、
短針が5を指してくれるあの瞬間を
今か今かと待ち望んでいる。
そして長針がやっと8周し、
時計が16時50分を指せば
私はそそくさとデスクの上と
自分の手荷物を整理し始め、
16時57分を指せば、
パソコンに打刻の画面を立ち上げる。
そして後2分。
誰かさん宛のメールが
大量に届く自分のメール画面を
無意味に開いてみる。
もちろん、時計の長針への目配りも忘れない。
55秒、56、57、58、59
17時。
素早く打刻をすまし、
椅子にかけてある上着を着て、
5分前から準備万端な鞄の持ち手を
ギュッと掴み、
「お先に失礼します」と発声して
部屋を出る。
転職して4ヶ月。
私はこの退勤スタイルが
今の会社にピッタリだと思っている。
コミュニケーションもない。
仕事もない。
私に仕事を頼む人も
何かを聞く人もいない。
(たまにイレギュラーで
仕事振られることもあるけど)
私は透明人間か?と
思わずにはいられない状況が常だ。
「よくクビにならないな。」と
自分でもそう思う。
しかし今の職場から派遣会社に
正式に依頼があり、
私はそこに、必要とされる足りない1人として
派遣されている。
全然足りなくない。
私がいなくても何の支障もない。
と思う。
しかし、不思議なことに
「今後も2人体制でいく」と
上司からは明言され、
しばらくの職の担保もされ、
給料も前職よりも良いということで
私はほぼ透明人間として
息をひそめながら
自分用に設けられたデスクに座り、
ほぼ無意味にパソコンを立ち上げている。
「私ってこういう人生を歩む予定だったっけ?」
絶対にそんなはずではなかった。
だけど人生というのは、出会に恵まれ、
出会いに振り回されるものなのだろう。
不本意な引越しを余儀なくされ
不本意なところで働いている。
転勤族の嫁とはそういうものなのかもしれない。
実際、不本意な今の状況に嘆くこともあった。
「私ってもっと、何か素敵なことができるはず」
夫と結婚した幸せと引き換えに
何かを失った気がして、
悲しい夜を過ごしたこともある。
しかし、
そんな夜を乗り越えた今の私はこう思う。
この世の中で、
自分のやりたいことを満足して
出来ている人は一体どれくらいいるのだろうか。
ーーー
私はエンターテイメントを
生業としている人たちが好きだ。
「バーレスク」「浅草キッド」
こういう映画がたまらなく好きだ。
何回観ても刺さる。
でも特に惹かれるのは「芸人」という人種。
小説だと「火花」みたいな、
そんな泥くさい芸人だ。
お金もないし、ないどころか借金も作って
ひもじい生活をしても
夢を見て、生きる。
人を笑わせたいから、
面白いと思ってもらいたいから。
もしかしたら、大金持ちになりたいから。
まぶしい。
きっとそんな芸人の日々は
辛く、苦しく、
闇を感じる時があるのかもしれないが、
私にはまぶしい。
だって私には、できっこない。
叶うかどうかもわからない夢を追うために
私は時間もお金もかけられない。
---
現実を見ずに、好きに夢を語れ。と
言われれば
保育士としてBIGになって、
全子ども達の才能を開花させたかった。
政府に「幼児教育」の重要性を訴え、
保育者、教育者の待遇改善、質の向上を
叶える人になりたかった。
でもやっぱり
この夢も叶えるには、時間がかかる。
まず大学院に行かないといけない。
そしてそんな私は今、
地方の安月給保育園で
保育士として働く勇気さえ持てない。
学生時代にこの夢を思いつけば、
もしかしたら
その夢に近づくことができたかもしれないが、
社会人になり、大好きな夫と結婚した今
動き出すエネルギーが不足しすぎている。
いつか叶うかもしれない夢に時間をかけるよりも
私は今晩、1杯呑みながら、
好きな本を読める時間の方が
愛おしく思ってしまう。
大きな夢を描くけど、
叶えるためには動けない。。
そこが私の弱さであり、
大人っぽいところなのだ。
だから、実現している人、
その途中の人を心から応援し尊敬している。
私はあくまで、
気軽に実現できる静かな幸せを
存分に噛み締めるタイプの主婦。
私が尊敬する夢追い人に
少しでもお金を落とせるように
私は日々、透明人間のごとく
デスクに座っている。
ーーー
そんな、凪のような、
静かで穏やかな毎日に
たまには波を立てたくなる時がある。
通勤途中にコンビニに寄って
カフェラテを買って飲んでみる。
本屋を巡り、
気になる本を見つけると
心が躍り、買ってみる。
私はこんなことで
私の中の穏やか凪に
一石を投じることができるのだ。
少し波紋が大きくなるだけで、
ウキウキできる。
これはきっと、私の長所なのかもしれない。
そして今日も、
時計の針に注目しながら、
静かに透明人間になっている。
17時。
そそくさとその場から逃げるように
部屋を飛び出し
暗くなった寒空の下を駅のほうに
向かって歩いていく。
途中、ファミリーマートから
男子高校生が2人、
ビニール袋をぶら下げて現れた。
1人の男の子が
「あったかい!」と大きな声を出した。
もう1人の男の子が、
隣の子の目を一瞥してから
少し間をおいて
「あったかい!!」と笑顔で復唱した。
私はその2人の声を右耳で捉えながら
「いや絶対に寒すぎるだろw w」と
心の中で思わずツッコみ
背中の方からは楽しそうな男の子達の
笑い声が聞こえてくる。
私は冷たい風に吹かれて
ぎゅっと身体を縮こませながら、
心はほんわり温まった。
凪の水面に
彼らが一石を投じてくれた。
かわいいな。
寒いのにあったかいって言うだけで
なんか楽しい気持ちになれる。
なんかとても、勉強になった。
そして、こういう偶然の出会いが
私の心を温めてくれる事実に
嬉しい気持ちになる。
逃げるように飛び出してきた
いつもの空の下には
まだまだ楽しいことが
たくさん潜んでいる。
それが感じられただけで
私はまたちょっと元気になれた。