下書きという、言葉未満のYELL
何か、書こうと思っていた。
漠然と。でも、確かに。
何か書く必要があると思っていた。
いざ、パソコンの前に座ってみると、書けない自分と出会うことも、ままある。書きたいことは、胸の中か、どこか、脳ではないところに既にある。
だけど、それは、まだ言葉未満の何かである。
『書く』という作業はまさに、自分のなかにあるその言葉未満を、言葉に押し込めるような作業だ。
わたしにとって、詩以外の文章はすべて、削ぎ落して押し込める作業のほうが多くて、自分の中にあるものを、具現化できた部分だけを言葉、や、文章、記事、と呼ぶことができるという感じ。
だから、詩を書く時には、できるだけ誰かに伝えるということを忘れようと思っている。
できれば耳なじみのよい言葉でありたいとは思うが、詩は、飛ぶ。
詩には、余白をはらんでソコにいるだけの存在感というか、匂いがある。
読み手が、理解することをあきらめて、感じよう、味わおうとする何かが、ある、と、思う。
だけど、文章は、ちょっと違う。
やっぱり、読んでもらうためのもので、自身でも理解するために言葉を尽くし、また、理解してもらいたいと、書き直したり、整えたりするものなのだ。
少なくとも、私にとっては。
今日、文章を書くことは、なんとなくわかっていた。
自分は何か書きたいんだなーと、そういう予感が、お昼ころからあったのだ。
だけど、何を書くのか、自分が一体何を文章にしようとしているのか、ついさっきまでわからなかった。
何か、ないかなーと何気なく、開いた下書き。
そこには、書ききらなかった、たくさんの言葉未満があった。
言葉未満にもタイトルはちゃんとついていて、自分でも、これは続きを読みたいな・・・と思うものがたくさんあった。
下書きをパラパラと開いていて、ふと、気が付いたのは、昔は、自分の出来上がっていない文章を見るのが嫌いだったのに、いつからか、出来上がっていないことを楽しめるようになったなーということ。
昔は、もっと、肩ひじ張って、無鉄砲に自分という存在の完全性みたいなものを、もう少し、信じていたような気がする。
世の中のすべての問に、ちゃんと答えが存在していると信じていたし、それは自分が見つけるべきものなんだと、無理して背負い込んでいた。
そうしないと、立っていられないくらい、脆く、弱い、それでいて煌めく若さにあふれていた。
だけど、今はもう違う。
世の中のほとんどの問には、答えが出せないことに、もう、なんとなく気が付いてしまった。
だからこそ、どんな答えを出しても、間違いではないことや、問い続けることにこそ、意味があるってこととか。
そういうことを、必死に、ではなく、ぼんやり考えて生きていられるくらいには、年をとった。
意外だった。
自分の言葉未満をいとおしいと思えられる日が、わたしにも来るとは。
出来損ないではない。
あれは、わたしの宝の山。
考えてみたけど、落とし込めなかった、わたしの気持ちたち。
きっと、書きあがるまでは、誰の目にも触れない。
だけど、あの山ほどの下書きが、わたしがわたしと向き合ってきたことを、やさしく、教えてくれているような気がした。
言葉未満のYELL。
受け取って私は、今日、一つ記事を書いた。
ありがとうね。
いつかの、挫折した私。
M a r i a
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