私の死生観
私が中学時代、毎日のように通っていた地元の塾。そこの塾長は、スパルタ的な指導で知られ、平気で生徒に罵声を浴びせるような問題のある先生だった。それでも、塾の進学実績は輝かしいものだったため、人気が絶えることはなかった。
「そんな頭が悪いのだったら、とっとと辞めてしまえ」とクラスに響き渡る位に怒鳴ることもあったし、男子生徒には、辞書を投げつけていた。無論、そんな人を尊敬できるはずもなく、私は塾長が大嫌いだった。
その先生自体、食べることもままならない子供時代を北海道で過ごし、身一つで東京にやってきて、かなり苦労したそうだ。地元では知らない人がいないほどの塾にまで成長させたのだから、努力の人なのだろう。
そんな経験もあってか、たまに良いことを言うことがあった。
私が中学生の時は、いじめの急増に伴い、子供の自殺が増えていた。「生きている意味がわからない」という遺書を残して、中学生が自殺したといった痛ましいニュースもあった。
「人生わかった」というのなら良いけれど、「生きている意味がわからない」といって死んでしまうなんてもったいない、と塾長は、授業の最初に切り出してきた。「人生の意味なんて、これからわかってくるものなのに」、と呟いていた。
もちろん、辛い時なんて、しかも子供のときは特に、そんな冷静には物事を考えられないだろう。それでも、生きている意味はこれからみつけていくんだ、というその先生の言葉はずしりと響いた。
私自身、人生なんとかなる、と思いつつも、辛いことがあるとすぐ落ち込む。死んだほうが楽だろうな、と思うことも時折ある。でも、自発的に死にたいとは思わない。
自分の人生のストーリーを完結するのを最後まで見届けなければと思っているからだ。この先どうなるのか、まったくわからないけれど、死を選ぶことで辛さから逃れるよりも、今辛くても自分のストーリーの結末を知りたいという好奇心が勝っている。
もちろん、心身を病んでいる人に対して、死んではダメ、など説教じみたことを言うつもりは毛頭ない。それぞれ事情が違い、私が言える立場ではないからだ。
子供の時から泣き虫だったと、以前記事で書いたが、小学校低学年のときから、死にたくないと毎晩泣きべそをかいて、親に心配をかけた。その時はなぜか、死の恐怖を感じていた。逆に今は、恐怖が全くないというと嘘になるけれど、年と共に、死に対して、自然と受け入れられるような気がする。
自分の人生のストーリーをどのように描いて、どう完結されるのか、人生の意味もまだわかっていない私は、日々、懸命に生きていくだけだ。