しょうけい館(戦傷病者史料館)に行って来た
先日、私は東京・九段下にある博物館兼教育施設「しょうけい館」に行って来たので、ごく簡単であるが、ご紹介したい。
この施設は先の戦争などで負傷した戦傷者や、病を得た戦病者たちの闘病と、その後の社会生活について展示をしている博物館であり、別名は「戦傷病者史料館」という国立の施設である。
「しょうけい」とは、受け継ぎ、語り継ぐを意味する「承継」のひらがな読みだそうだ。入場は無料である。
リニューアルオープンの式典
秋篠宮一家が訪問されたとき(リニューアル前)。30秒ごろにうつる、野戦病院のジオラマがリアル。麻酔薬がないので、二人がかりで患者を押さえつけて処置しているという地獄のような光景である。
ここは地下鉄九段下駅のそば、オフィスビルの2階と3階にあり、受付は2階。
内容は先ほど述べた通り、戦傷者や戦病者の様子、戦争に行く出征(しゅっせい)から、負傷、療養、そして、戦後の社会生活の展示がある。
今6月中旬は夏の企画展として、五人の旧海軍軍人たちの負傷とその後を追う展示がされていた。
旧日本軍は、戦地で必要な武器や物資、食料、医薬品などの補給、つまり兵たん(ロジスティクス)を軽視していた。そのためか、
戦死者の6割は戦病死、あるいは餓死であった。
有名な戦地のひとつ、ガダルカナル島は略してガ島というが、飢えによる戦死が多かったので「餓島・がとう」とも呼ばれたという。
兵士たちは、そのような悪条件下において、戦場にはびこる病や負傷と戦わざるを得なかった。今からほぼ80年前の医療であるから、今に比べれば、そのレベルは高くはあるまい。戦争で手足を失った人たちは、その後、義手や義足をつけて生活をしたことが、展示から明らかになる。国からの補助もか細い時代に、彼らの苦労がどのようなものだったかがわかる。
私がここを訪問したのは、
自分の小説「愛国者学園物語」
に必要だと思っていたからだ。それで、いつ行くか迷っていたのだが、6月8日土曜日にホームページを見たら、9日午後に、語り部が沖縄の「ひめゆり学徒隊」の話をするというので、9日に出かけた次第。
ひめゆりの話
は、沖縄戦の背景解説を含めて1時間ほど。ひめゆりの一員が、戦争末期になり、地獄のような沖縄本島南部の戦場をさまよい、海辺に出た。負傷していた彼女に、なんと米兵が鎮静剤を打ってくれたのだとか。沖縄の人々は米軍に捕まれば、男女とも酷たらしい死に方をすると思い込み、そう信じ込まされ、集団自決した人々も少なくなかった。だから、その鎮静剤のエピソードは予期せぬことだった。助かった、そのひめゆりメンバーは、戦後教師になり、戦傷のせいで不自由な足をいたわりつつ生きたそうだ。
しょうけい館とは関係ないが、以前見たひめゆりの映画
自分が書いたこのわずかな文章が、「しょうけい館」や戦傷病者の苦労を伝えているかはわからない。だが、世の中に少しでも、この施設の情報が増えればと思い、ここに記し公開することとする。
追記として一つ。
しょうけい館ホームページの「団体見学の受付について」というページに、「過去の来館校一覧」というページがある。それには、
陸上自衛隊の衛生学校
の関係者が頻繁にここに足を運んでいることが明らかにされていた。衛生学校は、旧軍の衛生兵などを育てる学校の後継と思えるから、きっと彼らはかつての戦争の教訓や、戦傷病者のその後についても学んでいるのだろう。自衛官とて戦傷病には無縁ではあるまい。一つ疑問なのは、自衛隊関連は陸自のその学校だけで、他の組織の名前は見当たらないのだが、なぜだろう。私が見落としたのだろうか。