自分に無理なく適応し、相手にしなやかに順応したい
大きな間違いや、不備を起こしてしまったら、つらい。
すぐに済む場合、どうにもならない場合。相手がいれば、納得してもらえる場合、または、納得してもらえない場合など、いろいろある。何にせよ落ち込むし、普通に考えれば、理解できる問題はできるだけ解消したい。何より相手に与えた迷惑をお詫びしたい。
ただし、時に、不条理で合点いかないこともある。頭のなかでどうにかしたり、サンドバッグをボカスカと殴ったり、明日のことを考えず乱酒したり、ほしいもの買いまくって散財したり、どんどん汚い妄想が出てくるので止めるが、何かしら発散したくなる。
ネガティブな気持ちは認めつつも、そんな出来事に直面したとき、やり過ごすのか、対処するのか、どう応じるか。素人なりのニュアンスで言葉にして、ありかたを探ってみたい。
適応とレジリエンス
不測の事態に応じる、という意味で「適応」という言葉がある。「適応障害」の認知が上がってか、職場でのストレスチェックや産業医の診断、理解の浸透もあって、診断数も上がっている?のか、さほど珍しい言葉という気もしない。そして、冒頭のように、誰もが適応を求められる。しっかり適応できたなら、この話は終わりそう。
かたや、過去の震災で「レジリエンス」という言葉を知った。”しなやかさ“を表す力で、同じく「適応能力」として紹介されている。労働環境の変化も話題の背景にあったようだ。ただ、この言葉、前述の文脈で語られる「適応」とは、同じ適応能力であっても、どこか意味が違うように感じる。フラットに比較するものでもないと思うけど、どうにもモヤモヤする。それぞれどんなものだろうか?
適応性:求められる利他主義
生活のあらゆる場面で、予想していない事態は起こる。こういうとき必要になる力こそ「適応力」で、その資質を「適応性」と呼ぶ。
(以下引用)
「適応性」は、人間関係構築力の資質です。
「適応性」は、今今に柔軟に対応していく資質です。
セルフトークは「仕方ない」です。
「適応性」の感覚としては、“未来は常に変わり得るもの”というのがあります。
ある意味、不測の事態というのはあるのがあたり前なのです。
ゆえに、予期していなかった出来事が起こっても、「ジタバタしても、仕方ない」と思え、立ち止まることなくその不測の事態に対応できるのです。
適応性は、起こったことに対処する能力で、受け身の資質になる。「不測の事態に対処できる力」と聞くと聞こえはいいけれど、自分の外で起こった出来事への対処だ。相手がいれば自分以外、他者への利他的な働きになる。前述の納得いかない場合であっても、事態はそんな意志と関係なく迫ってくる。基本的に避けられない。これは、それなりにストレスが生じることだと思う。
もちろん必要な力だと思うが、それだけ長けた人がいるなら「自己犠牲」「慈愛」の人だろう。主観だがイエス、北斗の拳でいえば、核爆発から身を呈して人々を守ったトキ(以下オフィシャルから拝借)ぐらいのレベル感だ。ただ、潰れてしまえば元も子もない。
レジリエンス:求められない利己主義
一方で「レジリエンス」
あまり知らないのだけど、これは同じ受け身でも、その後の対処が異なるようだ。
(以下引用)
近年では個人・組織ともに通用する「さまざまな環境・状況に対しても適応し、生き延びる力」として使われるようになりました。
(以下引用)
ビジネスの世界では成果主義を前提とした人事評価への移行により、多くのストレッサー(ストレスの元となる外部の刺激)を受けて、心に何らかの歪みが生じる機会はどんどん増加しているといえます。そのため、これらのストレスや歪みから跳ね返って回復できる力、『レジリエンス』が近年注目を集めています。
レジリエンスを作る要素は以下のように書いてある。
(以下引用)
・自己認識(Self-Awareness)
・自制心(Self-Regulation)
・精神的敏捷性(Mental Agility)
・楽観性(Optimism)
・自己効力感(Self-Efficacy)
・つながり(Connection)
跳ね返る、なんてパワフルな心だ。専門家ではないので、適当な解説は避けるが、なんとなく「自分」を大切にしているようにみえる。比較すると利己的に聞こえる。誰からも求められないことだろう。逆に捉えれば、能動的で自信が持てそうである。今風に言えばマインドフルだ。
すべて受け止めるか、関われるだけ関わるか
適応性とレジリエンス。ここまでの少ないインプットだが、この2つの違いを表にしてみた。
適応性はすべて受け止める。レジリエンスは関われるだけ関わる。それぞれの言葉が、どこに向いて、どの範囲で何ができるかが違うように思った。
適応がすべて、とばかりに思っていた
自分は「適応」がすべて、とばかりに思っていた。だから疲弊していたのかもしれない。潰れてしまえば元も子もない。
レジリエンスを持てたらどうなるだろうか?客体的に無理をして適応するのではなく、健康な心身で、しなやかに主体的に対処できる。でもどこか、自分勝手かもしれない。
もともとこの記事は、「適応」を否定して、「レジリエンス」を肯定するような内容で書こうとしていた。でも書き出してみてありかたを考えたとき、極端にどちらか、ということではなく、バランスよく順応することが必要だと感じた。最後にタイトルを変更した。
自分に無理なく適応し
相手にしなやかに順応したい
うまい括りにならないが、どんな不測や不条理な言われをしても、自分を殺すことなく、かといって相手を尊重しながら、世の中とうまくやっていける。なんとなくだけど、そんなふうありたいな。
(疲れたのでワクワクする曲を。。)
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。