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「プロットで大騒ぎをする人たち」

 小説を書くのに、何回も「プロット」が大切と繰り返し言われる人がいる。何か「プロットの完成」=「小説のできあがり」のような感じで繰り返され強調して言われると、さすがに、それは違うだろう? 間違っているだろう? といいたくなる。それは、「ミステリー小説」であったり長い「長編の小説」であったら、ある程度の「細かい」細部はあらかじめ決めておいた方が書きやすいだろうが、「純文学」を含め「恋愛小説」にそうしっかりして「プロット」が必要だろうか? わたしが、「プロット」といって思い出す作家は、安倍公房くらいである。安倍公房の「プロット」は念密であり、「プロット」が出来上がってから書いたよう気さえする。
  安倍公房氏が箱根の山荘にある仕事場で、その場所を見せてくれたことがある。ボードにきれいにピンで紙切れが止めてある。今書いている小説なのだろう。非常に理知的であり、文学をやるものというより、臨床医になったことがあるだけあって、思考方法が、自然科学者の様に思えた。
ワードプロフェッサーを作らせ、日本に数台しかないワープロで執筆したことがある。当時で数百万するものだったと聞いている。今だったら数千万だろう。彼は、そういう機械類が好きだった。
 そういう安倍氏の姿を見ていると彼はお話の「プロット」作りがすきで、きっと「プロット」は「骨子」であるので、それにつける肉、すなわち「物語り性」も同時につけていたとおもう。「プロット」=「物語り」だと思う。その「物語り」には、もちろん、ネタ、キャラクター、話のクライマックスなどすべてが仕込んであると思う。
 ここで「プロット」が大切という人は「骨子やストーリー展開」で、安倍氏のような」緻密な「物語性」はない。
 普通、「プロット」と「物語性」は「同義の物」だが、ここでは違う。
 簡単で大雑把なあらすじを「プロット」といい、大騒ぎをしている。
 何か、「プロット」の考え方が違う気がする。
 大切なのは、まず、これから書く「物語り」の「最初」と「最後」をしっかりと作ることだと思う。

ポルシェ


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