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声も出せない君へ

苦しかった記憶は大体、学校の中だった。
茫洋とした眼差しで何時間も黒いアスファルトを眺めていたこと。わざと乗り過ごした駅のホームから見た青い海。遅刻した朝のやけに暑い陽と、ギラギラした街路樹の緑葉。自分の想いすら言葉にできずに、押し黙って泣いた保健室の白い部屋とか。
 どれも忘れることができないし、忘れてなんかやらないと胸に刻んだ光景だった。

なぜなら、絶対この場所で復讐してやろうと誓っていたから。

「お前は教師に向いていない。お前には無理だ」

卒業する少し前、担任の男教師は私にそう言った。私からして見れば、その教師の粗雑な風貌も、丁寧では無い言葉遣いも、わかりにくい授業も汚い字もとても教師に向いているとは思えないけれど。

「あー。私も正直そう思います」苦笑いで返す。

特段そう言われたショックは薄かった。彼とはもっと別のところで私は教師の才が全く無いことはわかっていた。第一、こんなに高校生活がうまくいかないのは自分自身に問題があるに決まっている。
私は大勢の人の前で話すのが好きではないし、少ない規模ならまだしも40人の同年が集うクラスでも友達をあまり作れなかった。そそっかしさやケアレスミスには定評があり、持ち前にとびきりの愛嬌でもあろうものならカバーできたかもしれないが、生憎小さな声で謝罪が精一杯である。自信もない、勇気もない、根暗・ネガティブ……言えばキリがないほど、自分の嫌なところは知っていた。(今では同じくらい自分の良い点も言えるようになったけれど)

私の進学する大学では、ある科目の高校教員免許が取得できた。元より大学卒業後ストレートで教員になろうとは考えていなかったが、資格として持っておく分に損は無いし、大学を出た一つの成果として自分自身と両親に示しがつけば、なんてことも考えていた。まあ何よりの理由は自身の過去を昇華させる復讐のためだ。
誰に何を言われようとも、私はもう一度この高校に帰ってくる。今はまだ痛いけれど、いつかきっとこの苦しみを過去のものとして立っていよう。私はそう決意していた。

 大仰な言葉を使うが、別に嫌な思い出の因果となった教師や友人を殺したりするわけではない。あの時自分自身を楽にしてやれなかった、自分自身への復讐。記憶の清算と自分のような生徒を前にした時何どうしたら救えるか、絶対に取りこぼさないために何ができるか考えるということだ。

 学校という窮屈な世界で泣いていた自分と、誰も手を差し伸べてくれなかったという虚しさは私に「教育」への疑念を抱かせた。高校生の私は幼さゆえにコントロールの効かない自分を持て余して、それでも私なりににSOSを出していた。でもそれに答えられた教師はいなかった。
 へらへらと笑ってそれだけが表向きの感情として処理されていく。「助けて」とうまく言えるだけの言葉も持たない私たちは、一生見逃されて社会にも馴染めずに生きていかなきゃならないんだろうか。果たしてそれは、「教え、育てる」ということが正しく機能した結果なのだろうか。
 違うはずだ。誰かがあの頃の私を、私のような人々を助け、導くべきだ。そしてその声にならない声は、きっと同じ思いをした人じゃなければわからない。

 この春私は教育実習にあの場所へ帰ることになる。まだ、誰かを教え導くほどの経験も知識もない。ただ3年間かけて高校生の頃の自分やあの時の傷や苦しさについて理解した。何度も考え、その度に泣いたり怒ったり、死んでしまいたくもなった。だがまだ生きている。今はもう瘡蓋になった心の傷を撫ぜてやることもできる。

 たった、2週間しかない。残念ながらコミュニケーション能力にはいまだに自信がない。今後教師になるともわからないし、あの頃の自分のような子がいるとも限らない。でもこの先もずっと努力したいと思う。「教え、育てる」ことについて自分なりに学び続けることをやめないし、「誰1人取りこぼさないこと」についても考え続けることをやめない。

 こうやって人は過去の自分を救うために生きているんじゃないかとたまに思う。それがどれだけエゴでも、それで誰かが救われるのならいいなと毎日祈っている。


 

 



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