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「印の無い良い品」を売るように、 暮らしを販売することが出来ないか。

北海道の小さな町で、わたしたちが提供するもの。

北海道上士幌町(かみしほろ ちょう)。「無印良品の家」が設計するわたしたちの施設が、来春に完成する。

そこでわたしたちが提供するものを、ずっと考えている。この施設に泊まる人へ、提供できるものは何か。例えば、それは「暮らし」なのではないか、と思った。数日の旅行でもない、数年の移住とも言えない。やはり提供するものは、「暮らし」なのではないか、と。

そんなことを考えていると、浮かんで来たのはこの施設の理想的な情景だ。町の様々なひとが気軽に遊びに来てくれて、なんでもない話をする。好きなコーヒーをお裾分けの気持ちで淹れて、こないだ頂いた野菜の感想をお伝えする…そんな時間を想像したのだ。

ゴロゴロと立派なジャガイモをつくるひとたちが来て。一日中料理のことを考えながら、レストランをやっているひとが来て。デザインで、町にアートディレクションをもたらしているひとが来て。道の駅のひと、何かのインストラクターのひと、建設会社のひとたちも来てくれて。

そんなひとたちと、町の内外から遊びに来た人が話をして、企業やブランド、個人のこれからについて可能性を模索する。そんなことが起こる場所になってほしい。

『うちの企業で、今度こんなことがやりたくて。』『うちの野菜とこういうこと、やってみますか?』『よし!〇〇さんの食材を使って、こんなものを作ろうか』、『〇〇さんのレストランで、期間限定でこのブランドとこんなことやりますか!』。

町のひとには大したことではなくとも、外からきた人たちにとっては大きな価値に感じることがあるのかもしれない。例えば、自分の生き方に悩む人が来て、移住をきっかけに新しい職種になったひとに町で出会ったら?

それは自分の新しい生き方への、強いきっかけになりうるのだ。

自分はどんな人間になりたいのだろうか。そんな眼差しから、自分の暮らしを考える。そんな数日を過ごしてもらう場所。それがわたしたちの施設であれば、誇らしく良いものである、と思える。ふとした瞬間に、確信を持てた。

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そんな確信をし始めてから、「宿」とか「ホテル」という言い方をやめて、さらには(なるべくではあるが)「宿泊施設」という呼び方もやめた。一番しっくり来たのは、上士幌の「家」という呼び方。

理由は明快で、単純に“休む”ことだけが目的の場所とは、違う場所になると確認したからだ。何も考えずにボーッとして、気持ちいい〜!だけなら…正直、わたしたちもリゾート地に行く。もちろん、単純な休暇を過ごす場所として選んでもらっても、まったく問題ないのだが…。贅沢に休む場所では、ないのかもしれない。

そんな感覚を持つようになってから、改めてこの「家」自体が無印良品というブランドの、その思想に、大きな影響を受けていることを自覚し始めた。

まさに MUJI is Enough だと思う。

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画像は無印良品WEBサイトより

無印良品と「暮らし」の関係について学ぶ。

「無印良品の家」は、理想の【暮らし】を入れる、器として【家】を捉えている。

器があって、料理があるように。家があって、暮らしがあるのだ。あくまで背景として存在する「無印良品の家」の姿勢。提供する暮らしをつくるのは、わたしたちの仕事だ。

では、その「暮らし」をどうつくるか。世間ではよく「丁寧な暮らし」なんて言葉を聞くし、無印良品と近い言葉として使われているところを目にする。それが適切かは別にして、この“丁寧”とは、なんなのだろうか。考えを巡らせる。

この機会に、個人的に長年好意を抱いてきた【無印良品】のことを、改めて勉強してみることにした。

すると、世間の人たちが“丁寧”と言っていることの意味が少しずつ見えてきた。例えばそれは、無印良品の最初の商品に、答えがあるように思う。

有名な話ではあるが、はじまりの商品は『われ椎茸』である。傷がついたり、かけた椎茸を販売したのだ。実に無印良品らしい商品だと、改めて思った。

出汁をとる椎茸は、傷がついていても、欠けていても、出てくる出汁の味には大きな影響はない。それで十分である。この「これでいい」と言える中で、最高の商品をつくる。それが無印良品である、というのだ。まさに、無印良品の「これでいい」という価値観が現れている。

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画像は無印良品WEBサイトより

有名な初期のポスターからも、その精神は脈々と受け継がれている。

大量生産・大量消費が行われていたバブル時代にあって、その時代の姿勢に対してのアンチテーゼとして始まった。静かなブランドでありながら、
その精神は実にパンキッシュである、と思った。(実際にある人からそう習った。)

その思想への共感から、多くの方がそうしているように、家中のモノを無印良品にしてみる…すると、本来の目的、そのアイテムの役割で言えば、確かに「これでいい」。これ以上はToo Much。そう実感する場面が、生活に溢れる。

その視線をそのままに、自分の身の回り、はたまた物質以外のものにも、考えが及びはじめる。余分なものが必ずしも悪いわけではないが、それを見つめる眼差しが生まれる。考えが回り始める。考えることが、生活の時間に現れる。

【丁寧】とは、一つひとつを見つめて考えている。ということなのかもしれない。

そう考えると、様々なことを考える場所として、これほど、ピッタリの空間はない。自分たちの施設ながら、無印良品の家を軸として、新しい場所をつくり始めようとする今、強くそう感じるのである。

本来、企業としてやるべきことは何なのか。
本来、ブランドとして行うべきことは何なのか。
本来、自分のキャリアとして選ぶべきことは何か。

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画像は無印良品WEBサイトより

これから多くの人に考えごとをしてもらう場所。だとしたら、わたしたちの施設は、どんな空間であるべきなのだろうか。それを考えたい。

そして、その先にどんな「暮らし」を提供できるのだろうか。そんな漠然とした想いの相談相手として、わたしたちは札幌PARCOの中にある無印良品を訪ねた。

「暮らし」を共にデザインする人のもとへ。

その店舗でインテリア・アドバイザー、つまり空間をデザインする、北崎さんという方に、上士幌の「家」の、空間を考えてもらった。

どんな椅子にして、どんなテーブルにして、どんな棚を置いて、どんなベッドを用意して…「無印良品の家」の設計に、彼の空間デザインが入った。

どんな想いで、どんなモノを用意してくれたのか。どんな空間になっているのか、北崎さんに話を聞きに行った。北崎さんは普段、住宅のほか、企業のオフィスや事務所などの空間を、インテリアのアドバイスという観点から作っている人だ。

北海道の暮らしに精通し、無印良品らしさを知っている人。ピッタリの方と「暮らし」をつくれる、素晴らしい出会いだった。

そんな喜びの中、お話を聞いたインタビューを次回、後編のnoteで紹介したい。

【後編へつづく】


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