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30年日本史00236【奈良】蝦夷征討 伊治呰麻呂の乱

 宝亀7(776)年4月から、再び戦闘が始まりました。
 このときの紀広純ら朝廷軍の作戦は、蝦夷のうちの一部を手なづけて味方に引き込むというものでした。蝦夷の出身である伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は、この懐柔作戦に応じ、朝廷に帰順して蝦夷征討に加わるようになりました。
 9月13日には、朝廷軍は蝦夷の住人395人を捕らえ、九州の大宰府に強制的に移住させました。11月29日には同様に358人を大宰府と讃岐国(香川県)に移住させ、78人を京に連れていき奴隷としました。あまりに理不尽な扱いです。
 朝廷は征討の成果を高く評価し、宝亀9(778)年6月25日に、朝廷軍に参加した者たちに叙位・叙勲を行いました。このとき、伊治呰麻呂に対しても、地方人として最高位に近い「外従五位下」を与えています。伊治呰麻呂は蝦夷人でありながら朝廷軍の中で大きな存在感を示していたのでしょう。紀広純も砦麻呂には大いに信頼を置いていたようです。
 ところが、陸奥国牡鹿郡(おしかぐん)の大領を務める道嶋大楯(みちしまのおおたて)は、常日頃より呰麻呂を蝦夷人だとして侮蔑していました。大領とは郡司の中の最高位の役職です。呰麻呂は、道嶋大楯からの侮辱的な扱いを日頃から深く恨んでいました。
 宝亀11(780)年3月22日。呰麻呂は思い切った行動に出ます。
 紀広純と道嶋大楯は、伊治呰麻呂とともに伊治城(これはりじょう:宮城県栗原市)に入ったのですが、その機に乗じて呰麻呂は突然道嶋大楯を殺し、仲間を呼んで紀広純を取り囲んでこれも殺してしまいます。
 さらに、数日後には陸奥国府のある多賀城(宮城県多賀城市)を襲撃し、倉庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ってしまいました。
 政府にとって、出先機関の責任者が殺害され、出先機関の庁舎が焼失してしまったわけですから、これは大変な出来事です。朝廷は、3月28日に中納言の藤原継縄(ふじわらのつぐただ)を征東大使に任じ、さらに大伴益立(おおとものますたて)、紀古佐美(きのこさみ)の二人を征東副使に任じて、この鎮圧に当たらせます。
 しかし、藤原継縄が現地に赴くことはありませんでした。継縄の格は高く、現地に行って戦うことを想定していない人事だったのでしょう。名目だけの征東大使というわけです。実際に軍を率いたのは、大伴益立でした。
 大伴益立による武力討伐は、なかなか進みませんでした。5月8日に
「まずは兵糧を蓄え、5月下旬に陸奥国府に入り、敵の様子を伺った上で然るべき時期に征討を行います」
との報告をした後、2ヶ月近くも連絡を途絶えさせてしまいます。光仁天皇が現状報告をするよう強く迫った結果、「9月以降に征討する」との方針が立ったものの、半年近くの期間が空費されてしまったのでした。

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