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30年日本史00792【鎌倉末期】小手指原の戦いと久米川の戦い
新田軍が生品神社から南下していくと、周辺から幕府に不満を持つ武士たちが関東各地から次々と集まってきました。太平記によると、その軍勢は何と150騎から27万騎にまで膨れ上がったといいますが、誇張でしょう。
このとき、武蔵国で足利千寿王たち200騎とも合流したのですが、新田義貞よりも家格の高い足利家と合流してしまったことは、その後「鎌倉攻略の総大将は誰だったか」をめぐる足利と新田の対立を招く原因となります。
新田軍の南下を知った幕府は急ぎ対応を協議し、元弘3/正慶2(1333)年5月9日、金沢貞将と桜田貞国(さくらださだくに:1287~1333)を追討軍として差し向けることに決めました。5万人の大軍勢です。両軍は5月11日、小手指原(埼玉県所沢市)で激突しました。
この小手指原の戦いは、お互いにじっくりと布陣する余裕もない遭遇戦となりました。金沢・桜田率いる幕府軍は、敵の多さに当初は圧倒されていましたが、川を挟んで矢を射かけ合い、両者とも一歩も引かないまま日が暮れるまで戦い続けました。両軍とも大きな損害を出し、結果は新田軍の辛勝でした。
新田軍は入間川まで退き、幕府軍は久米川(東京都東村山市)まで退いて、互いに翌日の再戦に備えることとしました。夜が明けるのを待って、新田軍は敵より先に攻撃してしまえとばかり、久米川の敵陣まで進軍して奇襲をかけようとしました。
ところが幕府軍はこれを予期して待ち構えていました。十分な備えがなされていたため奇襲は思うように効果を上げられず、新田軍はむしろ被害を増やしてしまいます。
このとき、幕府軍は新田軍を罠にかけようと鶴翼(かくよく)の陣を布きました。横に長く兵を配置しておいて、わざと新田軍にやられて退却するように見せかけ、敵を深入りさせておいて、その後脇から敵を突くという作戦です。
しかし新田義貞は思った以上に戦上手でした。義貞は敵の作戦を看破した上で、あえて罠にかかったふりをして深入りしつつ、敵に脇を突く暇も与えずに幕府方の本陣を狙い打ちにしたのです。これにより幕府軍の主力が撃破され、桜田貞国は軍勢をまとめ、さらに南へと退却していきました。
この小手指原・久米川の古戦場について言及した国木田独歩(くにきだどっぽ:1871~1908)の「武蔵野」という随筆と小説の中間のような散文作品があります。それによると、国木田独歩が入手した江戸時代の地図に
「武蔵野のおもかげは今わずかに入間郡に残れり」
と記され、小手指原・久米川の古戦場が取り上げられていたというのです。
江戸時代に大開発され元の姿を失ってしまった武蔵野の原風景は、この古戦場のあたりにまだ残っているというのですが、令和の時代となった今はそれも見られないかもしれませんね。