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30年日本史01016【南北朝前期】打出浜の戦い 布陣

赤松範資は「のりすけ」、赤松則祐は「そくゆう」と読むことになっているんですが、これって当時は両方「のりすけ」だった気がしますよね。当時は諱で呼ぶことはないから、兄弟で同じ読みでも問題なかったんでしょうね。

 光明寺合戦の日の夜、尊氏軍のもとに、赤松範資から手紙が来ました。範資といえば、光明寺の陣から勝手に離脱した則祐の兄に当たります。範資が言うには、
「敵の動向について情報が入ったのでお知らせします。八幡の直義軍は、石塔義基(いしどうよしもと:?~1354?)と畠山国清を大将とする7千騎を光明寺に向かわせたとのことです。光明寺の石塔軍と合流されてしまうと一大事でしょう。今は一旦その城を差し置いて、援軍がやって来るのを防ぐべく神尾、十林寺、小清水(いずれも兵庫県西宮市の地名)あたりで合戦するのがよいでしょう」
とのことでした。ちなみに石塔義基とは、光明寺に立て籠もっている頼房の兄に当たります。
 尊氏・師直・師泰は、
「本来、我々の方が兵の数が多い。険しい山城を攻めているから苦戦しているのであって、平地で向き合って勝負するならば必ず勝てるはずだ。よし、この城は放置して、東からやって来る敵と戦おう」
と決めて、正平6/観応2/貞和7(1351)年2月13日、光明寺を発って小清水へと向かいました。
 一方、直義に派遣された畠山国清は、3千騎で播磨国の東条(兵庫県加東市)にいましたが、尊氏軍が小清水に向かったと聞いて、その目と鼻の先である打出浜(兵庫県芦屋市)に陣を布きました。光明寺に立て籠もっていた石塔頼房たちも同じく寺を出て打出浜に集結しました。
 2月17日夜、尊氏軍2万騎は正面と搦め手の二隊に分かれ、いよいよ攻撃を開始しました。
 尊氏軍に属する薬師寺公義は、
「今回の戦いは、大軍であることを頼みにしていては失敗するぞ」
と思い、あえて目立つように絹を縫い合わせ、両端に赤い緒を付けた旗を持ったといいます。気力を奮い立たせようとしたのでしょう。
 これから尊氏軍主力と直義軍主力(といっても直義本人は遠く八幡から指揮しているだけですが)の激しい衝突が始まります。この戦いは小清水から打出浜にかけて行われたらしく、太平記は「小清水合戦」と呼び、歴史学者は「打出浜の戦い」と呼んでいます。ちなみに楠木正成が戦死した「湊川の戦い」もすぐ近所で起こっているので、よく混同されます。
 以前説明したとおり、直義は戦に弱く、尊氏・師直は非常に強いのです。「直義が負けて、救援に駆けつけた尊氏・師直が勝つ」というのがお約束のパターンです(00832回参照)。まして今回は尊氏側が2万騎を有し、直義側が7千騎と少ない状況です。どちらが勝つか明らかです。
 ところが、結果は意外なものとなりました。

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