30年日本史00356【平安中期】平忠常の乱
万寿4(1027)年から藤原頼通の治世が始まるわけですが、その出鼻をくじく事件が長元元(1028)年6月に発生します。平忠常の乱です。
武蔵横領使の平忠常(たいらのただつね:967?~1031)が下総で反乱を起こしました。忠常は安房守・平惟忠(たいらのこれただ:?~1028)を殺害し、下総・上総・安房を占拠したのです。
まるで平将門の乱の再来ですね。しかし忠常の乱は将門の乱と違って、書籍で取り上げられることがほとんどありません。なぜなら、反乱側も鎮圧側もグダグダで、ほとんど合戦が起きなかったからです。
さて、忠常の乱を受けて、朝廷は追討使に平直方(たいらのなおかた)と中原成通(なかはらのなりみち)を任命しました。
ところが中原成通は全くやる気のない男でした。「腫れ物ができたので、その任務はお受けできません」と言って断ろうとしたのです。「腫れ物ごときは任務を免除する理由にはならない」と叱責され、やむなく平直方とともに追討に向かいます。
京を出発した追討軍ですが、しばらくして、中原成通から京へ使いがやって来ます。「老母が危篤であるから、追討使の役目を別の者に交代させて欲しい」というのです。どれだけやる気がないのでしょうこの人は。
調査したところ、中原の母の病気は大したものではないことが分かり、中原の願いは再び却下されます。
しかし、中原のみならず平直方も、その後も相変わらずやる気がありませんでした。翌長元2(1029)年になっても、平直方・中原成通は、平忠常と一戦も交えようとしません。忠常の居場所が分からないためだと言うのですが、本当でしょうか。
朝廷は二人の追討使を解任するか迷いましたが、まずは12月に中原成通だけを解任することとしました。
翌長元3(1030)年9月。平忠常の乱が長期化してきたため、平直方が罷免され甲斐守・源頼信が追討使に任命されました。
元々頼信は武勇に優れた有名な武将でしたが、平忠常と仲が良かったため追討使にふさわしくないとの意見があり、それまでなかなか出番がありませんでした。平直方が役に立たなかったため、やむなく頼信の登場となったわけです。
頼信を起用した効果はてきめんでした。翌長元4(1031)年、源頼信の力を恐れ、平忠常は戦わずして降伏したのです。頼信は忠常を京に護送することとなりますが、その途中、美濃野上(岐阜県関ヶ原町)で忠常は病死します。
忠常の降伏によって源氏の威力が見せつけられる結果となり、頼通は源氏を警戒するようになります。