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30年日本史00195【飛鳥】壬申の乱 瀬田橋の戦い

 弘文天皇が送り込んだ美濃討伐軍と飛鳥討伐軍のうち、美濃討伐軍の方は敵と戦わずして敗北してしまいます。
 というのも、天智天皇11(672)年7月2日、犬上川(滋賀県彦根市)に陣を設けたところで司令官らの内輪もめが起こり、山部王は蘇我果安・巨勢人に殺されてしまうのです。原因は分かっていませんが、山部王が大海人皇子方に内通していると疑われたのではないかといわれています。
 この司令官同士の殺し合いを見た者たちは、次々と軍を抜け出して大海人皇子方に投降してしまいました。
 蘇我果安はこっそりと大津に戻り、弘文天皇に事の次第を報告した後、なんと自殺してしまいます。その原因は全く分かっていません。もう敗北を悟ってしまったためではないでしょうか。
 美濃討伐軍は大失敗に終わりましたが、一方、大野果安率いる飛鳥討伐軍は一旦は勝利を収めます。
 大野果安率いる近江政府軍と、大伴吹負率いる大海人皇子軍とは、平城山(ならやま:奈良県奈良市)でぶつかり合い、あっという間に決着がつきました。何しろ軍勢の規模が違いますから。大伴吹負は大敗し、南に一旦敗走しますが、その後置始兎(おきそめのうさぎ)の軍1000人と合流し、体勢を立て直しました。そして当麻(たぎま:奈良県葛城市當麻町)で再び近江軍に決戦を挑み、勝利を収めました。当麻といえば、當麻寺(たいまでら)で有名な場所ですね。相撲の起源となった当麻蹴速(00114回参照)の領地でもあります。
 大伴吹負はさらに難波に向かい、難波に布陣する敵軍に勝利しました。こうして、美濃・近江方面でも、飛鳥方面でも、難波方面でも、弘文天皇方は完敗を喫することとなりました。
 勢い付いた大海人皇子は、近江に軍勢を送り込み、7月22日、瀬田橋(滋賀県大津市)でいよいよ最後の決戦が行われることとなります。
 大海人皇子方に勢いがあるとはいえ、近江は敵の本拠地です。日本書紀には
「近江軍は後ろが見えないほどの兵の数で、打ってくる矢が雨のようだった」
との記載があります。
 さらに近江軍は橋の板が外れる仕掛けを作っていました。大海人皇子軍が瀬田橋を渡ろうとすると、途中で板が外れて兵たちは次々と湖に落ちていきました。
 このピンチを切り抜けたのが、大海人皇子方の大分稚臣(おおきたのわかおみ)という人物です。彼は、板につけた綱を切断して仕掛けを無効化した上、矢の雨の下を突撃しました。矢を全身に浴びましたが、鎧を二重に着ていたためびくともしなかったとのことです。
 こうして弘文天皇方は大敗しました。大海人皇子軍は、近江大津宮に侵攻していきます。

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