30年日本史00194【飛鳥】壬申の乱 大伴吹負の奮戦
さて、近江政府側もどうにか兵を集めようとします。弘文天皇は兵を募るため、東国・吉備(岡山県)・筑紫(福岡県)に人を派遣するのですが、ことごとく失敗してしまいます。
まず、東国に派遣した者は大海人皇子軍に捕らえられてしまいます。東国は既に大海人皇子の勢力下に入っていたのですね。
次に、吉備に派遣した者は、吉備国司(岡山県知事みたいなものです)が大海人皇子方だったため交渉に失敗してしまいます。使者が激昂して吉備国司を斬ってしまったので、兵を集めるに当たって斡旋してくれる者がいなくなってしまったのです。短期は損気ということですね。
さらに、筑紫に派遣した者は大宰帥(だざいのそち:大宰府の長官)を説得できず、そのまま諦めて帰ってきてしまいました。
東国のみならず、西国もまた大海人皇子の味方ということですね。
さて、大海人皇子の方は全て順調に行っていたのかというと、そうでもありません。6月26日、伊勢に到着した大海人皇子は、名張(三重県名張市)で兵を集めようとしますが、名張郡司(名張市長みたいなものです)に出兵を拒否されてしまいます。諦めた大海人皇子は、伊勢神宮に参拝して戦勝を祈願します。
大海人皇子はそこから北上し、天智天皇11(672)年7月2日、伊賀で高市皇子の軍と合流しました。合流後、美濃国不破郡野上(岐阜県関ヶ原町)に進軍し、東国から近江政府に加勢できないよう、不破の道を閉鎖します。
この不破で、大海人皇子は長男・高市皇子に全軍の指揮をゆだねることを決定しました。大海人皇子自身は不破にとどまることにして、近江へ攻め入るのは長男に任せることにしたのです。
さあ、いよいよ戦いが始まります。壬申の乱の緒戦は、飛鳥の戦いです。
吉野には、かねてより大海人皇子の即位を願っていた大伴馬来田(おおとものうまくた:?~683)と大伴吹負(おおとものふけい:?~683)という兄弟がいました。兄の馬来田は大海人皇子を追って美濃へ行ったのですが、弟の吹負は吉野に残っていました。この吹負が緒戦で活躍することになるのです。
弘文天皇は、飛鳥の留守司を務める高坂王(たかさかのおおきみ:?~683)に対し、兵を集めるよう指示していました。これを知った大伴吹負は、いち早く高坂王の本営を襲撃し、高坂王を降伏させます。これにより、飛鳥の豪族がことごとく大海人皇子側につくことになるのです。
緒戦に敗北した弘文天皇は、大海人皇子が本拠を構える美濃に対して山部王(やまべのおおきみ:?~672)・蘇我果安・巨勢人ら率いる軍を送り込むとともに、飛鳥を奪い返すため大野果安(おおののはたやす)率いる軍を送り込みました。
こうして、戦いは美濃方面と飛鳥方面の2ヶ所で並行して行われることとなります。