見出し画像

30年日本史00348【平安中期】藤原顕光の失態

 藤原顕光の失態とはどんなものだったのでしょう。藤原実資の日記から読み解いてみましょう。
 顕光が担当したのは、三条天皇が譲位するに当たっての「固関の式(こげんのしき)」と呼ばれる儀式でした。これは天皇の譲位や崩御のような国家の重大事に当たって、勅使を出して諸国の関所を警固させるものです。古来、天皇の代替わり時には戦乱の発生を警戒する必要があったのでしょう。
 この手続においては、勅符(ちょくふ)と呼ばれる天皇の命令書と官符(かんぷ)と呼ばれる太政官の命令書を用います。
 本来の手続は、まず勅符の下書きを内覧(道長)に提出し、内容の了解を得てから清書します。そして清書済みの勅符と官符を合わせて内覧(道長)を通して天皇に提出します。ところが、慣れていない顕光は、勅符の下書きと官符を合わせていきなり内覧に提出してしまいました。
 次に顕光は、木契(もくけい)と呼ばれる札の扱いについても失敗してしまいます。木契とは四角い木の札で、「賜〇〇国」と書いて二つに割り、そのうち一方を朝廷で保管して、もう一方を勅使に持たせるというものです。正式な勅使であるか疑いが生じた際に事後検証できるようにするためのものでした。
 本来は、この木契の支度ができてから勅符や官符に時刻を記して捺印すべきなのに、顕光は木契の支度ができる前に捺印を命じてしまい、しかも捺印後に時刻の記入をするという手順となってしまいました。
 また、木契の片割れは包んで封をして顕光が署名し、その包みを少納言に渡すべきところ、慌てた顕光は木契をそのまま少納言に渡してしまいます。
 さらにこの儀式の最中、役人を召す際の呼び名は普段と異なり特別の「召詞(めしことば)」を使う決まりになっていました。召詞とは、様々な官職名を漢語ではなく大和言葉で呼ぶことを意味します。例えば、少納言は普段なら「しょうなごん」ですが儀式中は「すないものもうすつかさ」、大納言は普段なら「だいなごん」ですが儀式中は「おおいものもうすつかさ」、近衛府は普段なら「このえふ」ですが儀式中は「ちかつまもりのつかさ」と呼ばなければなりません。
 ところが顕光は「すないものもうすつかさ」を「すのいものもうすつかさ」、「ちかつまもりのつかさ」を「ちかのまもりのつかさ」などと呼び、しかもこの誤りを繰り返し、公卿たちの嘲笑を買いました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?