
30年日本史00548【鎌倉初期】奥州合戦 阿津賀志山の戦い
白河の関の突破を許してしまった泰衡ですが、阿武隈川には絶対防衛圏ともいえる防衛線を張っていました。泰衡は今回の戦闘に備えて、阿津賀志山(福島県国見町)から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引き、総延長3kmに及ぶ三重の防塁を築かせていたのです。
泰衡はここに総大将として兄・国衡を派遣し、2万の兵を配置しました。
文治5(1189)年8月7日。頼朝軍はこの防塁へとやって来ました。頼朝は翌朝を待って攻撃するよう命じ、命を受けた畠山重忠は人夫80名を使って、土砂を運んで堀を埋めにかかりました。
8月8日午前6時頃。畠山重忠らが、金剛秀綱(こんごうひでつな:?~1189)率いる数千騎と戦闘を開始しました。畠山軍が優勢で、午前10時頃には秀綱は大木戸(福島県国見町)へと退却していきました。
8月10日には、畠山重忠はその大木戸への総攻撃を行いました。激戦のさなか、畠山重忠率いる本軍とは別に、搦手軍が迂回して国衡の後方を奇襲します。挟み撃ちにあった奥州軍は混乱に陥り、金剛秀綱は戦死しました。
混乱の中で総大将・国衡は出羽方面に脱出しようとしますが、これを追撃した和田義盛の放った矢が国衡の鎧を射抜き、国衡もまた戦死してしまいます。
多賀城に詰めていた泰衡は、阿津賀志山での敗北を知ってさすがに敵わぬと見て、平泉方面へ退却しました。ずいぶん消極的な大将ですね。
一方、比企能員(ひきよしかず:?~1203)らの軍は同時並行で日本海側を進軍していました。8月13日には出羽を攻略し、泰衡の家人・由利維衡(ゆりこれひら:?~1190)が生け捕りとなりました。由利維衡は現在の秋田県由利本荘市を領地とする武士です。
8月14日、
「物見岡(宮城県富谷市・利府町)に泰衡が立て籠もっている」
との情報を得た頼朝は、小山朝政を物見岡に進軍させました。小山朝政といえば、野木宮合戦で志田義広を破った武将です(00475回参照)。
小山軍はその日のうちに物見岡を陥落させましたが、そこに泰衡の姿は見当たりません。
8月20日、頼朝軍は敵の立て籠もる多加波々城(たかばばじょう:宮城県大崎市)を取り囲み、これを陥落させましたが、ここにも泰衡の姿はありませんでした。泰衡は既に平泉の居城に逃亡しているようです。