【掟】石丸伸二の事実上の宣伝映画が何やら揉めてそうな雰囲気;そこには、クリエイターの命をかけた戦いが存在した
石丸伸二をモデルにして書かれた戯曲『掟』が今年2月から舞台演劇として上演された。そして今、それを映画化して8月末に公開された作品が、上映形式をめぐって騒動を起こしている。
複数の映画館で上記のような案内をしている。文中の「この映画を戯曲の映画化として観て欲しい、そして何よりもテーマを正確に伝えたい」という部分はどの映画館でも共通しており、中津留監督または制作会社から正式に文書で依頼されたものだと思われる。
もとより私は、石丸伸二の薄ら笑いを見ても不快になるだけなので、YouTubeやスマホでならまだしも、映画館の神聖なる銀幕で観るなんてまっぴら御免である。だから私にはこの映画を劇場観覧する選択肢など持たなかったのだが、観たくても観られない状況になったと知ると観たくなってしまうから不思議なものだ。(苦笑)
一体、記者会見のどの部分を切り取って見せていたのだろうか。配信やブルーレイなどでパッケージ化される時はどうなるのだろうか。
▼映画の基本情報:
観たくない映画を映画館で観るほど私は悪趣味ではないが、座組みだけでもしっかり把握したいからパンフレットだけでも買ってみようか、などと考えた。しかし、どうやら制作されてないらしい。まったく「情報開示」のなってない映画だぜ。(苦笑)
映画プロデューサーの奥山和由が企画・製作を手がけ、原作舞台の劇作・演出を務めた中津留章仁が監督・脚本を担当した。公式ホームページに経緯が記してあったので、引用する。
企画・製作:奥山和由 音楽:高畠洋 脚本・監督:中津留章仁
撮影:吉沢和晃 照明:五味くれた 録音:西岡正巳
編集:洲﨑千恵子 助監督:土岐洋介
スタイリスト:岩田友裕 ヘアメイク:伊藤里香
制作担当:牧義寛
ラインプロデューサー:高瀬博行
プロデューサー:豊里泰宏
製作:チームオクヤマ
制作プロダクション:シンクイ
配給:Santa Barbara Pictures
協力:太秦
企画協力:トラッシュマスターズ
▼なんか揉めてそうな雰囲気:
さて。話題を記者会見映像の削除の件に戻そう。
公式ホームページからコラムに飛べる。そこに3つだけ記事が公開されている。短期間で言ってることが二転三転しており、現場の混乱ぶりを察することができる。全て短文だったので、そのまま引用する。
コラム①
ちなみに、キノシネマは日本全国のどこも上映作品の紹介コーナーを作って展示しているので、それほど特別なことではない。(笑)まあ、でも広報PRってこんなものなので、公式HPでこうして宣伝すること自体は普通だし、別に良いと思う。
しかし、公開直後の更新では暗雲が立ち込めていた。
コラム②
正直、意味不明である。上映開始(8月30日)から一週間で、各劇場で1日1回だけ石丸伸二の記者会見なしで上映する運用に変更されたのである。しかもその理由は「監督の強い要望」だとある。そして、引き続き記者会見ありのバージョンの上映も続く。つまり、監督と意見が衝突している勢力が居るということである。しかも公開後にもなって、まだ決着がついてない。これは異常事態である。
そして、そこからわずかに5日後に更に激震が走った。
コラム③
当初掲げられた《1日1回だけ》しかも《1週間限定》という特別ルールが、その一週間を待たずして完全撤廃されて、《全ての上映回》を《無期限》で記者会見なしバージョンに変更されたのだ。つまり、当初の記者会見ありバージョンは半永久的に封印された。こうなると完全に異常事態である。
3つ目のコラムと同日に、プロデューサーの奥山和由もツイートで報告していた。公式サイトとほぼ同じ文章である。おそらくこれが各映画館が出している案内文の元になったと考えて、間違いないだろう。
プロデューサーは「監督の言い分に納得した」と円満解決をアピールしているが、もしかしたら、1日1回だけ記者会見なしバージョンで上映して、観客動員数がそちらの方が良かったら、以降は全て記者会見なしバージョンにするという約束が、監督と配給会社の間で密かに交わされていた(売上で勝負して上映バージョンを決めることにしていた)のかもしれない。
個人的にはそんな気がする。
そのくらいスピーディーな意思決定だと感じる。
ちなみに公開の場所で閲覧できる当事者のやりとりは以下の通り。
▼実際の上映スケジュール:
この変遷がどれだけ異常なのか実感していただくために、ここで改めて実際のキノシネマ立川の上映スケジュールで確認して欲しい。
上映バージョンのドタバタ遍歴も異常だが、他の上映作品の多くが1日1回なのに対して、『掟』には作品の規模や話題性からはおよそ不釣り合いとも言えそうな1日4回上映で封切りしていたのも異常に見える。
最近は国産アニメ映画に顕著だが、公開直後は映画館の独占に近いレベルで上映回数を増やすのが大手シネコンの恒例行事になっている。もちろん需要があるからそうしている面もあるが、他にも《話題作り》とか、観る作品を劇場に来て決めるタイプの人達に向けて「これだけ回数が多いのだから、きっと面白い映画なのだろう」と思い込ませる狙いもある。SNS全盛期の現代では、初期投資は大きく注ぎ込んで、とにかく目に触れる機会を増やして、そこからクチコミでの爆発力に賭けるというマーケティング手法もある。
つまり配給側には、この『掟』という映画を売り出したい意図が特に強くあったことが窺える。
おそらくプロデューサーが中心になって書いたであろう公式ホームページの説明文にも書いてある通りだ。ちゃんと賭けに出て、上映回数を多めにしたことは素直にすごいと思う。
いみじくも、石丸伸二がネットを上手く使って地方から全国へバズったのと、本質的には変わらない戦略だったと言える。石丸のTwitterは無料で、映画の配給は有料で、という違いこそあるけど。これだけ多くの上映回数にするには、配給側はそれなりの金額を劇場側に支払ったと思われるので、ちゃんと回収できたか少し心配である。(老婆心)
▼削除が決まったタイミング:
なお記者会見映像なしバージョンで統一される9月13日は、全国拡大上映の初日でもあった。
それは公式サイトではなくて、石丸伸二のツイートで私は知った。
ちょうど石丸伸二が著書『覚悟の論理』の印税収入をめぐってネットが炎上していた時期なのもあってか、この映画では報酬が発生しないことを強調しているのがちょっと可笑しく見えてしまう。(ついイジりたくなるよね)
そして、自分がモデルになった映画ではあるが、こうして上映バージョンから自分が切られた映画の宣伝をしてるのは、少し気の毒でもある。(この点については石丸氏に非はないので、ザマァミロと罵倒する気持ちには私はあまりならないかな)
でも、冷静になってよく読むと、、、石丸伸二は「さて、どんな映画になったのか」と、映画『掟』を観てもいないのに、宣伝している。これはお人好しなのか、マヌケと呼ぶべきなのか?(苦笑)
いや、普段からあれだけメディア不信の態度を貫いていながら、映画の内容を確認しないでTwitterで宣伝するなんて不自然すぎる。だから、ロジカルに考えるならば、石丸氏は本当は観たけど「まだ観てない」という体裁で発言しているのだと考えられる。
まあ、石丸伸二が映画を観たのかどうかは正直どちらでも良いし、活動家やインフルエンサーとしては好きにすれば良いと思う。しかし、政治家としては《自分で内容を把握してないものを安易に宣伝する態度》は不適切だと私は思うね。シンプルに不勉強でしょ。同じことをインタビュアーがやったら、石丸伸二ってキレそうだよね。こういうことするから「政治家としては無能」とか「無責任」とか「アホだ」って言われるんだよ、石丸伸二は。(苦笑)
本当は観てた。⇒ 石丸伸二は嘘つき。
本当に観てない。⇒ 石丸伸二は無責任。
…詰んでる。(笑)
▼主演俳優の気になる発言:
実は2月時点で、映画『掟』の元になった舞台『掟』にも出演していた、主演俳優・森下庸之がブログで石丸フィーバーへの懸念とも取れる意見を表明していた。
森下庸之のブログ更新頻度はあまり高くない。彼は上記を2月26日に更新して以降は、3月5日にガザでの衝突を受けて新記事を1本更新したのみだった。それほど寡黙な人だが、言わずには居られない気持ちになったということの意味は重い。
そして、7月上旬に都知事選がらみで上記が発掘されて炎上したことを受けて、7月11日に緊急で1本更新した。そこで森下庸之は、心配してくれるファンや支えてくれる周囲の人達に感謝を述べつつ、自身に誹謗中傷や批判を向ける人達に向けては以下のように発信している。
「石丸伸二が言ってるように石丸信者のお前らも是々非々で判断しろよ」という強烈な皮肉である。おそらく石丸シンパに一部含まれる過激派(山根議員や武岡議員をSNSで人格攻撃していたような人達)から、森下庸之も少なくない誹謗中傷を受けたのだろう。
これだけ読むと俳優の森下庸之は「あれは石丸伸二のことだけを言ったんじゃない;政治家なんてみんなそういう所あるだろ」とまるで言い逃れをしているようにさえ読解できてしまいそうだが、それはミスリードである。
実は森下庸之の7月11日のブログは、その前日の中津留章仁監督のツイートを受けての発言だったと踏まえて読むと、意図を正しく解釈できるのだ。
▼監督のスタンス:
この映画や騒動についての「正しい解釈」を見極めるために、監督自身の発言を探したら、Twitterに長文を見つけることが出来た。7月10日に、実に19のツイートに連なって言葉を尽くして説明している。これは東京都知事選挙の直後で石丸構文が流行していた時期であり、主演俳優が2月に書いたブログが炎上した時期でもある。
中津留監督への敬意を込めて全文を引用する。(ただし漢字の誤変換を訂正した箇所のみ省略した;原文を読みたい人は後述の元リンクを参照されたし)
以下、引用。
以上、引用おわり。
原文やリプなどを確認したい人はリンクから参照いただきたい。
要点をまとめよう。
1)この映画(と演劇)は石丸伸二の礼賛ではない。
2)監督が石丸伸二に着目したのはネットで石丸市長がバズる1年前。
3)石丸市長と安芸高田市議会の、どちらにも問題を感じた。
4)石丸市長は、美術館など箱物をどんどん潰した芸術の敵。
5)市議会議員は、ディベートが下手すぎる。
6)石丸市長に対応するためにディベートが上達した議員も居る。
7)石丸市長のハラスメント発言なども2月の演劇で盛り込み済み。
8)石丸構文は信頼できない相手に心を閉ざしてる時だけ見られる。
以下は、中津留監督のツイートを受けての私の考察である。
●石丸伸二礼賛ではない(=誤解しないで欲しい)
1)つまり監督は石丸伸二を礼賛するつもりで書いた作品じゃないのに、映画のプロモーションでは石丸伸二を礼賛するムードになっていて、それで誤解してそうなお客様が多いことを懸念している。
おそらく、映画の冒頭に東京都知事選の出馬記者会見の映像をつけてしまうと、まるで地方都市で行政改革を実現した市長が、次のターゲットとして東京を世直しするために出てきた物語のような意味づけがされてしまうので、これに強く抵抗したのだと考えられる。
それは奥山プロデューサーのツイートにも明確に書かれている。
おそらく、冒頭の記者会見映像が《映画鑑賞時の方向づけ》として機能することで映画のメッセージを正しく受容できない観客が多い、と中津留監督は感じ取ったのだと思われる。それで上映開始後にもかかわらず、上映バージョンの変更を強く求めたのだろう。
これは主演の森下庸之が2月の舞台上演中に感じ取ってブログに書いた懸念とも通底する部分がある。森下氏は石丸市長をモデルにした架空の市長の言動を、良い点も悪い点もある人物として演じていたのに、観客からは石丸市長を熱烈に支持する声が多く寄せられることに危機感を持ったのだろう。
2月といえば、ネットでは石丸市長を絶賛する声が圧倒的多数だったので、そういう石丸伸二礼賛を期待して観劇する客が多かった。そのために是々非々で描いてるはずの演劇を、観客は正しく認知できなくなる。
中津留監督はそうした認知バイアスを少しでも取り除くために、映画冒頭での記者会見映像を削除して、映画の中身だけで観てもらいたいと考えたのだろう。
こんな感じなので、ポスターの宣伝文句に石丸伸二の名前を入れたり、石丸伸二の写真を加工して大きく載せるのも、監督は本当は嫌だったのではないかと予想する。しかしプロデューサーや配給会社の意向で「売れるために石丸フィーバーを利用しよう」という結論に至ったのではないか。
●ネットで有名になる前から石丸市長を知ってた
2)中津留監督が石丸伸二に着目したのは2年前で、これは2023年の夏にYouTubeで石丸伸二の切り抜き動画がバズるより前である。だから中津留監督は石丸伸二と議会のやりとりを是々非々で観察することがしやすかったのだと思われる。
なお奥山プロデューサーが舞台版『掟』の脚本を読んだのは2024年2月だったので、むしろ石丸フィーバーの真っ最中である。なので、これを石丸伸二礼賛のコンテンツとして売り出すことを企画したのだと考察できる。
奥山プロデューサーは金儲けのこと以外は何も考えないチャランポランだったのか?それとも政治オンチだったのか?あるいは石丸伸二を東京都知事するために大量の資金を投入して利権を得ようとしていた人達や組織に利用された駒だったのか?…といった背景まで論じると根拠に乏しい陰謀論になり下がりそうなので、これ以上の深入りはしない。
ただ、舞台版よりも映画版が石丸伸二のプロモーションとしての属性を強く持っていたのは客観的事実だと言えるだろう。
だって舞台版のポスターには石丸伸二の名前も、石丸伸二の言葉も書いてないから。なんなら舞台版は市長らしき人物のイラストも悪い人相で描いてあるくらいだから。(笑)
●芸術家としての危機感
3,4)美術館を閉館されて危機感を持った監督は、いかにも芸術に身を置く者らしい。
●市長と議会が本来目指すものとは?
5,6)安芸高田市議会の議員の話が長かったり、回りくどかったりする時があるのは確かに私も感じる。
しかし、これは石丸市長が相手の言葉のミスに漬け込んで話題をすり替えたり、愚弄したりして、議員を苛つかせたり怒らせたりしていたから起きたことが大半だったように見受けられる。この場合、問題があるのは石丸市長の方である。
そもそも、議員はディベートのプロではない。あくまで市民の代表である。時に発生する言葉のミスを確認しながら建設的に議論を進めるべきである。相手の言葉尻を掴んで論破するだけで市政は回らない。そこを勘違いし続けた石丸市長が悪い。
ディベートのスキルが向上した議員とあるが、具体的に誰のことなのか。私もいくつかの議会の動画を視聴したことがあるが、石丸市長は自分の政策に賛成する議員とは機嫌良く議論していた印象がある。しかし反対する人には大抵苛烈だった。
敵にはミラーリングで敵意を剥き出しに対峙して、自分にとってのイエスマンだけは味方扱いする、これは独裁者のやり方に他ならない。異なる意見に耳を傾け、落とし所を探る、それが民主主義である。民主主義の日本において、石丸伸二は完全に不適切な政治家である。
●ハラスメント疑惑に関して
7)これについては、当noteを執筆時点で私は映画を未見なので、何も論じられない。でも、今回の中津留監督の声明を読んで、映画を観ても良い気になってきたので、そのあとで論じてみようかな。
●「閉じた論法」について
8)先に5,6で書いたことと同じ。心を閉ざす政治家なんて民主主義では無能だよ。
大手銀行の資金力をバックに企業にでかい顔する銀行屋のやり方で、民主主義の政治家は務まらないのよ。
逆にカネの力でモノを言わす人達のことを、あなたは政治屋と呼んで侮蔑していたじゃないか。石丸伸二が政治屋をあんなに憎むのは同族嫌悪の一種なのかもしれないわね。自分が同じ立場だったら汚職や不正に手を染めるだろう、と発想するから、相手のことを疑うんじゃないですか?
▼まとめ:
今回、何やら揉めてそう、というところからスタートしたが、実際にそこにあったのは、自分の作品を正しく鑑賞して欲しいと願う監督の、文字通りクリエイター生命をかけた戦いだった。
少し、この映画に対する見方が変わった。
自分の作品を守るために戦った中津留監督を尊敬する。
◆追記(2024年9月26日)
実際に、映画を劇場で観覧して、詳しい感想を書いたので追記しておく。
(了)
最後まで読んでいただきありがとうございます。ぜひ「読んだよ」の一言がわりにでもスキを押していってくださると嬉しいです!