書評:碁盤斬り(映画版と小説版のちがい)
5月に観た映画の脚本家が書いた小説をようやく読みまして。
映画では語られなかった部分が売りでしたが、実際は映画とは解釈が劇的に変わる部分もあって、なかなか面白い読書体験になりました。
▼キャラ設定が全然ちがう:
私は映画自体はとても好きだったのですが、観た時にどうにも理解できなかった部分がありまして、それは冒頭の場面、主人公の行動基準というかキャラ設定でした。
というのが冒頭の流れなのですが。正直、私には柳田格之進の動機やキャラ設定が意味不明すぎて、まったく理解できませんでした。読者の皆さんも、この一連の行動には筋が通ってないと思いませんか。
まず第一に《絶対に手をつけちゃいけない金をギャンブルですってしまう無責任さ》が理解できません。ただのギャンブルカスなのかなーとも思ったのですが、映画全体で柳田はちゃんとした人物とも描かれていて、この矛盾を自分の中で解消できなかったので、私は現実的な手段としてキャラクターを理解することを放棄しました。この映画の主人公は、矛盾しまくりだし、論理的に考えて整合性が取れる人物像じゃないのかなーと。
このために「柳田がわざと賭け囲碁で負けた理由」も、映画のラストでの「柳田がとる行動」もよく理解できませんでした。(苦笑)
あまり根詰めて考えなくても、映像自体がすごくシネマティックで素晴らしかったので、そういう感覚的な部分を切り取るだけでも十分楽しめるなーと思ったのもありました。細かいことや背景はあとで気が向いたらゆっくり考えれば良いやと。
つまり、もしかしたら柳田は本物のサイコパスかもしれないからきっと私にはすぐに理解できない人物なんだろう、と現実的に考えて諦めた感じですね。本作については、そこは私にとって優先順位はそれほど高くないとも思ったので。それよりは美術や照明や撮影やVFXを堪能することに注意を集中しようと決めました。
しかし、小説版を読んで考えが大きく変わりました。
柳田格之進はちゃんと筋が通った人物です。
まさに志の高い、立派な武士だったのです!
小説版では
1)柳田は大家に滞納してる家賃を「夕刻に払う」と答える。
2)柳田は篆刻を上野の料亭に納品して代金に一両を受け取る。
3)柳田は長屋にまっすぐ帰ってくる。
4)長屋で大工の秀が賭場から帰ってこないと騒ぎになっていた。
5)柳田は賭場に行き、秀は十両負けていた。
6)柳田は圧倒的な剣術で賭場の悪党どもを恐怖で硬直させる。
7)柳田は一両だけ払って、秀を連れて帰る。
8)お絹は「それなら仕方ありませんね」と笑う。
9)お絹は嘘泣きを使って大家に支払日を延期させる。
10)柳田は吉原へお庚に囲碁の稽古をつけに行き、一分を受け取る。
11)柳田はお庚にお絹の縁談を頼み、快諾したお庚は前祝いに酒を出す。
12)柳田は帰り道でお絹への土産にクシを買おうとするが少し足りない。
13)柳田は賭け囲碁で無双してる男を見かける。
14)柳田は源兵衛に「貧乏人は賭ける金もあるまい」と挑発される。
15)柳田は源兵衛に勝って二分に増やしてクシを買おうと決める。
16)柳田は源兵衛に鮮やかな囲碁で勝負を決める。
17)しかし源兵衛はみっともなく食い下がってきて柳田は嫌気が差す。
18)柳田は勝負を放棄して手ぶらで帰る。
19)源兵衛は柳田がわざと負けた理由が気になるようになる。
20)お絹は柳田が賭け囲碁で金をすったことを聞いてひどく怒る。
太字は映画版でカットされた部分です。
これなら私だって解りますよ!(笑)
映画版では上野と吉原のエピソードを一つにまとめて、秀を助けるエピソードをごっそり削除しています。
映画化するにあたっての時間短縮のためだと思いますが、この変更はとても悪いと言わざるを得ないでしょう。
小説版では《①家賃にするつもりだった一両小判はちゃんと持ち帰ったけど、人助けのためにやむなく捨てた》《②酒を飲んで上機嫌になったこともあり、クシ(嗜好品)を買うつもりだった余剰(可処分所得)の一分金を、娘のためという名目をつけて「賭け碁で二倍に増やしてやるか」と打ち始めたけど、やっぱり賭け事は汚らしいと思って潔癖感から捨てた》でした。
それが、、、映画版では《家賃を払うための大事なお金を、思いつきで賭けに全額ベットして何かよくわからないこだわりでアッサリ捨てたサイコパス》になってしまったのですから!(笑)
全然、違うじゃん!(笑)
小説=人助けのために自分のお金を差し出す人
映画=家賃にすると娘と約束した金をギャンブルに使う人
映画では柳田の理不尽な金遣いに黙って従っているようにさえ見えたお絹だって、小説版では《①人助けのためなら許す》でも《②賭け事のためなら怒る》という現代の価値観でも正しいと思える行動を取ります。これが映画版では《賭け事で家賃用のお金を捨ててきた父を庇うために大家に頭を下げる娘》という完全なる毒親に尽くす娘になってしまっています。私は江戸時代だからそういう男尊女卑で家長制度の文化背景からお絹もそう振舞ってるのかな、と思いましたが、小説版のお絹はむしろ現代的な女性でした。
この状況で、映画の柳田に感情移入なんて私にはできませんでしたよ。(苦笑)だからあくまでファッションとして映画のビジュアル的な格好良さに重きを置いて観覧したのが、5月時点での感想となります。
しかしまあ…
ここまでキャラが変わるのにどうして映画版はあれでOKにしたのでしょうかね?
▼小説版でのわかりやすさ:
映画版ではすぐに語られなかった柳田がわざと負けた理由も、小説では丁寧な心情描写があったので、とても解りやすいものになっていました。
小説はこのように柳田の心理を全部教えてくれますが、映画版ではここで何も語らないので、柳田がものすごいサイコパスか奇人に見えます。(笑)
なお、柳田がわざと負けた理由について映画版でも、数日後に源兵衛が尋ねて柳田が教えてやるシーンがありました。しかし、それ以前に家賃を賭けにぶっ込んだことが気になっていた私はよく理解できませんでした。
「いや、お前そこでいかにも正しそうな理屈を言ってるけど、そもそもそのお金は家賃だったんだから賭け金にしたらダメだろw」と。
小説版でも後から源兵衛が質問してる場面があるので引用しておきます。映画でもこの通りのセリフだったかは、ちょっと記憶がもう無いです…(恥)
いや、囲碁が穢れるとか論じる前に、まずは娘を裏切ったことを反省しろよ、と映画版の時は思ってしまい、話がまともに入ってきませんでした。(笑)
▼映画版のぶっ壊れ金銭感覚:
しかも、映画版の柳田は賭けに一分ではなくて一両をぶっ込んでいました。そんな大金を、しかもつい先刻に娘に持って帰ってくると約束した金を一度に賭けるなんてバカなのか、と強い憤りを感じた記憶があります。(笑)
小説版では余った一分金だったところが、映画版では家賃の一両小判に。金額も非常識に大きすぎますし、しつこいけど、そもそも家賃用に貰ってきますと娘と約束したお金でっせ。
このように設定や行動基準に深く関わる部分を映画では乱暴に削ったことで、説明不足になるだけでなく余計なノイズまで生まれて、本作は主人公のキャラを正しく理解するのが難しい映画になってしまいました。
映画を観ている時点で、「源兵衛が柳田の囲碁の姿勢に感化されたのは、源兵衛は柳田が家賃にする予定だった大金を捨てたことを知らないのだから、まあ当然だよな」と思いました。そして同時に「でも柳田は自分に都合の悪いことは言わないペテン野郎だよなー」とも思っていました。しかしながら、映画では柳田を聖人君子のように描いてるので、私の中で論理的に矛盾なく理解することを諦めてしまったのでしょう、今になって思い返せば。(苦笑)
しいて合理的に解釈するならば、《柳田は過去に起こした問題で精神的に大きなダメージを受けて、たまに支離滅裂な思考をするようになった》くらいに私は柳田のキャラを認識していたような気がします。人間は矛盾を抱える生き物ですから、そのくらいの弱みは許してやろうかなと。それがこの映画のスタンスなのかなと。
さらにもう一つだけ映画にダメ出しすると、小説版では序盤で大工の秀を助ける場面で印象的な刀捌きを見せるので、最初に柳田の剣の実力をビジュアルで説明するチャンスがありました。映画版ではこれも放棄していることになります。
まあチャンバラに関しては、後の場面でいくらでも見せ場を作れるので、削除が合理的な判断だったとも言えますが、柳田の剣の腕を最序盤でわかりやすく見せるシーンが削られてしまったのは少し寂しいですね。
▼小説版で追加された要素:
ここから先はネタバレの度合いが大きくなるので、あまり知りたくない人は読まないでください。
小説だけに書かれた要素をまとめると…
という感じですかね。
ただし、いずれでも世界観を補強するだけなので映画で描かなかったのは良い判断だったと思います。キャラ造形が大きく変わってしまったのは、本当に冒頭の人助けのエピソード(秀を救うために家賃の一両を捨てた)ただ一点だけだったと思います。
渋谷兵庫(斎藤工)が囲碁の腕前では柳田を圧倒していたのは、ちょっと私は映画を観ているだけでは判らなかったので、劇中のセリフでもっと強調して欲しかったですね。柳田が自分で「囲碁ではまったく敵わなかった」と言うとか、梶木左門(奥野瑛太)が「柳田様でも敵いませんでした」と言うとか、そういうセリフが映画に欲しかったです。これの有無でラストの囲碁バトルの緊張感が大きく変わります。なお小説版では柳田が源兵衛との対局を重ねる過程で自身もよく勉強して強くなっていた描写があるので、スポ根ジャンルのような面白さもあります。
小説の序盤で柳田が懲らしめた山谷堀の賭場の権蔵が、物語の終盤で再び現れる展開には心躍りました。柳田と左門は急いで江戸に帰ってきたのですが、アンダーグラウンドの賭け碁なので会場を見つけられず焦ります。そこで柳田が思い出して、その道のプロに頼もうと権蔵に「見つけてくれ」と頼みに行きます。こういう伏線回収の展開は読んでて楽しいですね。
あとは、徳次郎(音尾琢真)が最後に懺悔する場面も映画でカットされてしまったのは残念に思います。元はといえば、この徳次郎が「柳田が五十両をくすねたに違いない」と疑って、弥吉(中川大志)に柳田の住む長屋まで行かせたのが元凶ですからね。本当に柳田に首斬りされるべきだったのはコイツじゃん。(笑)
狩野探幽がらみと映画の後日談は濃い内容だったのでチャプターを分けます。
▼狩野探幽の軸を返却しなかった理由:
映画版ではキャラがブレてるせいでよく理解できなかった柳田が軸を彦根に返却しなかった理由ですが、小説版では心理描写もあるので誤解の余地がありません。
まずは柴田を探して中山道を旅する柳田が、左門と再会して酒を飲む場面。
ここで柳田が自分は侍に相応しくないと言ってます。このセリフは映画にもあったと思いますが、ある種の闇堕ちしたのかなと私は思いました。
そして柴田を倒して、狩野探幽の軸を取り戻したあと、柴田討伐の報告と探幽の軸を殿に届けるために桜田門の上屋敷に向かった左門を、柳田があとを追いかけて呼び止めた場面。
この太字にした地の文は、映画版では役者の演技力と監督の演出力、そして観客の読解力に頼ることになるのですが…
申し訳ないけど、草彅剛の目から「些かも邪心はない」ということは私は判別できなかったですし、奥野瑛太の「やっと理解した」ような演技には見えなかったですねー。映画を観てる時は「まあ何か理由があるなら」と思って柳田を信用して左門は従ったんだろうな、くらいに思いました。
繰り返し書きますが、映画版の柳田は娘に約束した家賃を帰り道で捨ててくるギャンブルカス野郎なので、そんな高潔な人には見えませんでした。
そして、これは最も重要なことですが、こうして地の文で説明されても、殿を騙して、藩の貴重な資産である狩野探幽の軸を売り払って、それを過去に自分が不正を暴いた人達に分配する、という行動の正当性に納得できません。
盗んだ軸を売って儲けた金で、人助けなんかして嬉しいか?
しかも、そんな貴重品を質屋に捌いたら、すぐに噂になりまっせ?(笑)
柴田が貴重な軸を持っていて、それを柳田たちが持ち帰ったことは、大晦日に多数の人達に見られているんです。それも互いの命を賭ける碁として非常にドラマチックな勝負をしただけでなく、そのまま斬り合いになって、何人も怪我人が出て、柴田兵庫がそのまま首を斬られた大事件になったんですぜ。
隠し通せるわけがないです。その噂話が殿の耳まで届いた時に、責任を取らされるのは梶木左門なんですよ?
もしくは、柳田は藩に戻る意思がないから、罪人になって、指名手配されても良いと考えているのかしら?
だけど、一年後には柳田はのこのこ江戸に帰ってきて、呑気に娘夫婦と孫と一緒に暮らしてるから、それは無いよな?
そもそも金を受け取る側の人達も、複雑な心境じゃね?
それとも、これが享保の時代の、人々の考え方のスタンダード?
▼映画の後日談:
柳田はお絹と弥吉の祝儀を抜け出して、誰にも本心を言わず旅に出ます。狩野探幽の軸を三百両で売り払って、日本各地を巡り、かつて自身が苦しめた者たちやその残された家族に金を配って回ります。柳田を恨んでいた者、自身の罪に後悔していた者、色々あったようですが、半ば強引に渡したり、和解するなどしながら、一年近くかけて金を配り終えて江戸に帰ってきます。
しかし、柳田が源兵衛と再会することはありませんでした。柳田の本心を知らない源兵衛は、大事な友の信頼を失ったという傷心から、「一から出直す」とだけ書き置きし、家督を弥吉に譲って、ちょうど江戸から姿を消した直後だったからです。
それから十年の月日が流れ、柳田とお絹と八歳になったお絹の息子の三人で、彦根のお絹の母の墓参りに行きます。東海道を進み箱根を越えて、島田宿に差し掛かったところで大雨で大井川が数日川止めしており、どの宿も空き部屋がなく路頭に迷っていた三人を、通りすがりの者に助けられてある旅館の離れを貸してもらいます。実はそこの主人が源兵衛で、柳田と源兵衛は奇跡的な再会を喜び、囲碁に興じる…という場面で小説は終わります。
うーん。
映画のエピソードとして十年後を削除するのは賢明な判断だったと思いますけど、何も言わずに結婚式を抜け出して旅に出た柳田の行動はやっぱり理解に苦しみますねー、正直。そのせいで源兵衛は心を痛めて家を捨ててしまっているわけですから。(苦笑)
それもこれも、全て、10年後の島田宿での再会エピソードをドラマチックに描くためのご都合主義のようなものを感じてしまいます。(苦笑)
どういう意図があって、この展開にしたのでしょうか。加藤正人さんは高明な脚本家なので、何かしらの意図があるのだと思うのですが、私には少し理解できません。源兵衛の「出奔」には、どういう意義を持たせられるのか、なんとかして知りたいものです。
実は、お絹と弥吉の息子の名前は源兵衛です。それは柳田が「どうしてもと言い張ってつけた名前」であり、「源兵衛がいなくなってから授かった子だから、きっと神様が代わりとして萬屋に使わしてくれたのだろうということでこの名前にした」ということです。小説版には、それを聞いた源兵衛が胸を打たれ、感極まる場面があるのですが、、、もしかして、そのため?
なんか昼ドラみたいでずるいわ〜。(笑)
(了)