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書評:碁盤斬り(映画版と小説版のちがい)

#ネタバレ

5月に観た映画の脚本家が書いた小説をようやく読みまして。

映画では語られなかった部分が売りでしたが、実際は映画とは解釈が劇的に変わる部分もあって、なかなか面白い読書体験になりました。


▼キャラ設定が全然ちがう:

私は映画自体はとても好きだったのですが、観た時にどうにも理解できなかった部分がありまして、それは冒頭の場面、主人公の行動基準というかキャラ設定でした。

映画版の序盤:
その日、柳田格之進(草彅剛)は長屋の大家から滞納してる家賃を請求されて「今日の夕刻までに払います」と言って、吉原の半蔵松葉という宿のお庚(小泉今日子)に頼まれた篆刻を届け、代金に一両小判を受け取るが、その帰り道にキッパリ辞めていた賭け囲碁に手を出して、そこで無双していた源兵衛(國村隼)との勝負にこともあろうに全額ベットして、ところが明らかに勝てる状況だったのになぜか勝負を放棄して、手ぶらで帰り、長屋で請求のために出直して来た大家には娘のお絹(清原果耶)が機転をきかせて謝罪いて日を改めてもらった。一方で、源兵衛は柳田がわざと負けた理由をわからないでいた。

というのが冒頭の流れなのですが。正直、私には柳田格之進の動機やキャラ設定が意味不明すぎて、まったく理解できませんでした。読者の皆さんも、この一連の行動には筋が通ってないと思いませんか。

まず第一に《絶対に手をつけちゃいけない金をギャンブルですってしまう無責任さ》が理解できません。ただのギャンブルカスなのかなーとも思ったのですが、映画全体で柳田はちゃんとした人物とも描かれていて、この矛盾を自分の中で解消できなかったので、私は現実的な手段としてキャラクターを理解することを放棄しました。この映画の主人公は、矛盾しまくりだし、論理的に考えて整合性が取れる人物像じゃないのかなーと。

このために「柳田がわざと賭け囲碁で負けた理由」も、映画のラストでの「柳田がとる行動」もよく理解できませんでした。(苦笑)

あまり根詰めて考えなくても、映像自体がすごくシネマティックで素晴らしかったので、そういう感覚的な部分を切り取るだけでも十分楽しめるなーと思ったのもありました。細かいことや背景はあとで気が向いたらゆっくり考えれば良いやと。

つまり、もしかしたら柳田は本物のサイコパスかもしれないからきっと私にはすぐに理解できない人物なんだろう、と現実的に考えて諦めた感じですね。本作については、そこは私にとって優先順位はそれほど高くないとも思ったので。それよりは美術や照明や撮影やVFXを堪能することに注意を集中しようと決めました。

参考)5月20日に書いた私の感想:
私はシンプルに柳田が旅に出た理由が解りません。そりゃあ、いくつか仮説を考えらることなら出来ますが、映画内の描写から一つには絞れません。柴田が盗んだ掛け軸を売り払ってしまった(おそらく結婚資金にした?)ので、もう今さら彦根に戻るとは考えられません。妻の魂を供養するために旅立ったとしても、娘の祝いの席から娘に黙って出掛ける理由がありません。そこで作品街の要素に着目してメタナラティブに考えるならば…まさか、このカットを撮りたかっただけ??実はこれ、意外と当たってるんじゃないでしょうか。(笑)予告編でも最初に出てくるショットが、このラストシーンなんですよ。というか、エンドクレジットで長尺このシチュエーションを流してましたよね。たぶん、今回の時代劇を撮るにあたっての白石和彌監督の理想像であり美学だと思うんですよねー。結構マジで。これは監督が相当気に入ってないと、こんなことでしませんよ、普通。

https://note.com/james_miles_jp/n/n1d6d79610723

しかし、小説版を読んで考えが大きく変わりました。

柳田格之進はちゃんと筋が通った人物です。

まさに志の高い、立派な武士だったのです!

小説版では

1)柳田は大家に滞納してる家賃を「夕刻に払う」と答える。
2)柳田は篆刻を上野の料亭に納品して代金に一両を受け取る。
3)柳田は長屋にまっすぐ帰ってくる。
4)長屋で大工の秀が賭場から帰ってこないと騒ぎになっていた。
5)柳田は賭場に行き、秀は十両負けていた。
6)柳田は圧倒的な剣術で賭場の悪党どもを恐怖で硬直させる。
7)柳田は一両だけ払って、秀を連れて帰る。
8)お絹は「それなら仕方ありませんね」と笑う。
9)お絹は嘘泣きを使って大家に支払日を延期させる。
10)柳田は吉原へお庚に囲碁の稽古をつけに行き、一分を受け取る。
11)柳田はお庚にお絹の縁談を頼み、快諾したお庚は前祝いに酒を出す。
12)柳田は帰り道でお絹への土産にクシを買おうとするが少し足りない。
13)柳田は賭け囲碁で無双してる男を見かける。
14)柳田は源兵衛に「貧乏人は賭ける金もあるまい」と挑発される。
15)柳田は源兵衛に勝って二分に増やしてクシを買おうと決める。
16)柳田は源兵衛に鮮やかな囲碁で勝負を決める。
17)しかし源兵衛はみっともなく食い下がってきて柳田は嫌気が差す。
18)柳田は勝負を放棄して手ぶらで帰る。
19)源兵衛は柳田がわざと負けた理由が気になるようになる。
20)お絹は柳田が賭け囲碁で金をすったことを聞いてひどく怒る。

太字は映画版でカットされた部分です。

これなら私だって解りますよ!(笑)

映画版では上野と吉原のエピソードを一つにまとめて、秀を助けるエピソードをごっそり削除しています。

映画化するにあたっての時間短縮のためだと思いますが、この変更はとても悪いと言わざるを得ないでしょう。

小説版では《①家賃にするつもりだった一両小判はちゃんと持ち帰ったけど、人助けのためにやむなく捨てた》《②酒を飲んで上機嫌になったこともあり、クシ(嗜好品)を買うつもりだった余剰(可処分所得)の一分金を、娘のためという名目をつけて「賭け碁で二倍に増やしてやるか」と打ち始めたけど、やっぱり賭け事は汚らしいと思って潔癖感から捨てた》でした。

それが、、、映画版では《家賃を払うための大事なお金を、思いつきで賭けに全額ベットして何かよくわからないこだわりでアッサリ捨てたサイコパス》になってしまったのですから!(笑)

全然、違うじゃん!(笑)

  • 小説=人助けのために自分のお金を差し出す人

  • 映画=家賃にすると娘と約束した金をギャンブルに使う人

映画では柳田の理不尽な金遣いに黙って従っているようにさえ見えたお絹だって、小説版では《①人助けのためなら許す》でも《②賭け事のためなら怒る》という現代の価値観でも正しいと思える行動を取ります。これが映画版では《賭け事で家賃用のお金を捨ててきた父を庇うために大家に頭を下げる娘》という完全なる毒親に尽くす娘になってしまっています。私は江戸時代だからそういう男尊女卑で家長制度の文化背景からお絹もそう振舞ってるのかな、と思いましたが、小説版のお絹はむしろ現代的な女性でした。

この状況で、映画の柳田に感情移入なんて私にはできませんでしたよ。(苦笑)だからあくまでファッションとして映画のビジュアル的な格好良さに重きを置いて観覧したのが、5月時点での感想となります。

しかしまあ…

ここまでキャラが変わるのにどうして映画版はあれでOKにしたのでしょうかね?

▼小説版でのわかりやすさ:

映画版ではすぐに語られなかった柳田がわざと負けた理由も、小説では丁寧な心情描写があったので、とても解りやすいものになっていました。

格之進は、相手の石の一団にぺたりと付けた。不思議な手だった。その手を見た男の顔が、みるみる紅潮した。格之進の放った一手は、大石の命脈を断つ絶妙手であった。その一手で、男の手が止まった。(中略)見物していた客がざわめいた。男の大石を葬って勝負は終わった。だが、相手はまだ勝負を諦めなかった。(中略)だが、格之進の大石は立派な形をしているので眼を作るは容易く、どうやっても殺せるはずはなかった。相手は、無理筋を承知で、高飛車なことを言いながら乱暴に石を打った。格之進はこんな粗野な男と碁を打っている自分が嫌になった。囲碁は勝ち負けを競う。勝つために手を探し、あらゆる技を使う。だが、勝ちさえすればいいというものではない。勝負よりも大切なものが求められる。それは品格だ。あと十数手打ち進めれば、格之進の大石がはっきり活きていることが明らかになり終局となる。というか、既に碁は終わっている。碁が終われば、男はきっと、あれこれ悪態をついて、勝ち逃げは許さない、もう一番打ちましょうと絡んでくるだろう。そういうことが予想されて、格之進は意欲を失った。またお絹があれほど嫌っていた賭け事をしている自分にも嫌気が差した。一分の金を二分にしようという邪な考えを持ったことを恥じた。格之進は、手にした石を碁笥に戻して頭を下げた。

小説はこのように柳田の心理を全部教えてくれますが、映画版ではここで何も語らないので、柳田がものすごいサイコパスか奇人に見えます。(笑)

なお、柳田がわざと負けた理由について映画版でも、数日後に源兵衛が尋ねて柳田が教えてやるシーンがありました。しかし、それ以前に家賃を賭けにぶっ込んだことが気になっていた私はよく理解できませんでした。

「いや、お前そこでいかにも正しそうな理屈を言ってるけど、そもそもそのお金は家賃だったんだから賭け金にしたらダメだろw」と。

小説版でも後から源兵衛が質問してる場面があるので引用しておきます。映画でもこの通りのセリフだったかは、ちょっと記憶がもう無いです…(恥)

「ひとつだけお聞かせください。柳田様、あの碁会所で何故勝ちを譲られたのです」
(中略)
「ずいぶん昔のことになりますが、無礼な相手の打ちぶりに、平常心を失い相手と諍いになったことがありました。それを思い出してしまいまして」
格之進の顔に、一瞬微かな翳りが過ぎった。(*)
「囲碁というものは、味わい深いものです。勝負の奥底に、勝ち負けを越えたものがあります。芸というか、品性というか…」
「どういうことでしょうか」
「囲碁を打てば人間が磨かれます。自ずと気品が備わってくるものです。それが勝負の本当の目的のように思うのです。なりふり構わず品性を捨ててまで価値を貪るというのは、本末転倒のような気がしてならないのです」
穏やかな言い方ではあったが、源兵衛は叩きのめされたような気持ちになった。
「それでは、私の姑息な碁に嫌気が差し、それで柳田様は、みすみす一分を捨てたのでございますか」
「世知辛い世の中ですが、囲碁だけは、正々堂々と嘘偽りなく打ちたいのです」
源兵衛は格之進の言葉を反芻して呟いた。
「正々堂々と、嘘偽りなく…」
商いは駆け引きだ。正々堂々馬鹿正直に取引していれば利は出ない。買い取りは低く見積もり、それを高く売るのが商いというものだ。源兵衛は、正々堂々という言葉を久しく忘れていたような気がした。
「あれ以上打ち進めると、碁が穢れてしまうような気がしたのです」
穢れるという言葉が、源兵衛の胸に突き刺さった。勝ち碁を捨てた格之進を、源兵衛はすっかり変人だと思っていた。だが、こうして本人から聞いてるうちに、曲がったことは一毫たりともしないという、人としての矜持が伝わってきた。この柳田格之進という男は、勝負を捨て、一分という金を捨てた。そうしなければ失ってしまうものがあったからだ。そうまでして守ろうとしたのは人としての誇りだ。

*映画版では過去のいざこざがフラッシュバックしていた気がします。

いや、囲碁が穢れるとか論じる前に、まずは娘を裏切ったことを反省しろよ、と映画版の時は思ってしまい、話がまともに入ってきませんでした。(笑)

▼映画版のぶっ壊れ金銭感覚:

しかも、映画版の柳田は賭けに一分ではなくて一両をぶっ込んでいました。そんな大金を、しかもつい先刻に娘に持って帰ってくると約束した金を一度に賭けるなんてバカなのか、と強い憤りを感じた記憶があります。(笑)

確認のために改めて本編映像を観ました。映画版ではお庚が一両小判を包んでるので、直後に柳田が賭け碁でベットしたのも一両ということになりますね。半年分の滞納家賃を一度で完済できるほどの大金ですよ。魔が差してぶっこめる金額じゃないんですよ!(笑)
https://youtu.be/GeDh2-C8AZo
江戸時代は4進法を使っており、1両=4分=16朱=4000文となっていました。1両は小判1枚です。「小判十両で首が飛ぶ」といわれ、10両を盗んだら死刑になるほどの大金でした。庶民は一生小判を見ることなどなかったくらいです。(造幣局ホームページより)
https://www.mint.go.jp/kids/try/shikumi

小説版では余った一分金だったところが、映画版では家賃の一両小判に。金額も非常識に大きすぎますし、しつこいけど、そもそも家賃用に貰ってきますと娘と約束したお金でっせ。

このように設定や行動基準に深く関わる部分を映画では乱暴に削ったことで、説明不足になるだけでなく余計なノイズまで生まれて、本作は主人公のキャラを正しく理解するのが難しい映画になってしまいました。

映画を観ている時点で、「源兵衛が柳田の囲碁の姿勢に感化されたのは、源兵衛は柳田が家賃にする予定だった大金を捨てたことを知らないのだから、まあ当然だよな」と思いました。そして同時に「でも柳田は自分に都合の悪いことは言わないペテン野郎だよなー」とも思っていました。しかしながら、映画では柳田を聖人君子のように描いてるので、私の中で論理的に矛盾なく理解することを諦めてしまったのでしょう、今になって思い返せば。(苦笑)

しいて合理的に解釈するならば、《柳田は過去に起こした問題で精神的に大きなダメージを受けて、たまに支離滅裂な思考をするようになった》くらいに私は柳田のキャラを認識していたような気がします。人間は矛盾を抱える生き物ですから、そのくらいの弱みは許してやろうかなと。それがこの映画のスタンスなのかなと。

さらにもう一つだけ映画にダメ出しすると、小説版では序盤で大工の秀を助ける場面で印象的な刀捌きを見せるので、最初に柳田の剣の実力をビジュアルで説明するチャンスがありました。映画版ではこれも放棄していることになります。

威圧されても、格之進は微動だにしなかった。
「おい、どうしたい。お腰の物は竹光かい」
権蔵が小馬鹿にして茶色い歯を見せた瞬間、格之進はすっと左足を引いた。腰が沈んだ瞬間、格之進は脇差の柄を掴んでいた。一閃、二閃、刃が光った。目にも止まらぬ早業だった。居合わせた者たちが気がつくと、既に刀は鞘に収まっていた。筵を捲って覗いていた留吉は、何が起こったか分からず、きょとんとしていた。秀を縛っていた荒縄が、はらりと床に落ちた。格之進の刀で斬られたのだ。
「秀さん、帰りましょう」
縄を解かれた秀が、立ち上がって格之進の後ろに立った。
「てめえ、ふざけやがって」
そう言いながら権蔵が格之進の胸ぐらに手を伸ばそうとした。その瞬間、何かがぼとりと床に落ちた。それは、権蔵の髷だった。権蔵は、髷が消えた頭を両手で押さえ、その場にへたり込んだ。

まあチャンバラに関しては、後の場面でいくらでも見せ場を作れるので、削除が合理的な判断だったとも言えますが、柳田の剣の腕を最序盤でわかりやすく見せるシーンが削られてしまったのは少し寂しいですね。

▼小説版で追加された要素:

ここから先はネタバレの度合いが大きくなるので、あまり知りたくない人は読まないでください。

#ネタバレ

小説だけに書かれた要素をまとめると…

・長屋の家賃を人助けで遣ってしまう逸話
・お絹がお庚の本心を偶然クリーンヒットする逸話
・柳田と源兵衛が仲良くなる過程の詳細
・柳田も源兵衛との手談で囲碁が強くなっていたことの明示
・柳田の商売(書・篆刻)が急に繁盛して生活が改善する逸話
・柳田と妻の馴れ初めを詳しく
・囲碁の腕前は渋谷兵庫が圧倒的に上だったことの明示
・剣の腕前は柳田が圧倒的に上であることの明示
・梶木左門にもタイムリミットがあった逸話
・お絹と桔梗の友情
・大晦日の賭け碁を見つけるために山谷堀の権蔵を頼る逸話
・柳田が狩野探幽の軸を返却しなかった狙いの明示
・徳次郎が懺悔する逸話
・映画の後日談

という感じですかね。

ただし、いずれでも世界観を補強するだけなので映画で描かなかったのは良い判断だったと思います。キャラ造形が大きく変わってしまったのは、本当に冒頭の人助けのエピソード(秀を救うために家賃の一両を捨てた)ただ一点だけだったと思います。

渋谷兵庫(斎藤工)が囲碁の腕前では柳田を圧倒していたのは、ちょっと私は映画を観ているだけでは判らなかったので、劇中のセリフでもっと強調して欲しかったですね。柳田が自分で「囲碁ではまったく敵わなかった」と言うとか、梶木左門(奥野瑛太)が「柳田様でも敵いませんでした」と言うとか、そういうセリフが映画に欲しかったです。これの有無でラストの囲碁バトルの緊張感が大きく変わります。なお小説版では柳田が源兵衛との対局を重ねる過程で自身もよく勉強して強くなっていた描写があるので、スポ根ジャンルのような面白さもあります。

小説の序盤で柳田が懲らしめた山谷堀の賭場の権蔵が、物語の終盤で再び現れる展開には心躍りました。柳田と左門は急いで江戸に帰ってきたのですが、アンダーグラウンドの賭け碁なので会場を見つけられず焦ります。そこで柳田が思い出して、その道のプロに頼もうと権蔵に「見つけてくれ」と頼みに行きます。こういう伏線回収の展開は読んでて楽しいですね。

あとは、徳次郎(音尾琢真)が最後に懺悔する場面も映画でカットされてしまったのは残念に思います。元はといえば、この徳次郎が「柳田が五十両をくすねたに違いない」と疑って、弥吉(中川大志)に柳田の住む長屋まで行かせたのが元凶ですからね。本当に柳田に首斬りされるべきだったのはコイツじゃん。(笑)

狩野探幽がらみと映画の後日談は濃い内容だったのでチャプターを分けます。

▼狩野探幽の軸を返却しなかった理由:

映画版ではキャラがブレてるせいでよく理解できなかった柳田が軸を彦根に返却しなかった理由ですが、小説版では心理描写もあるので誤解の余地がありません。

まずは柴田を探して中山道を旅する柳田が、左門と再会して酒を飲む場面。

格之進は藩で横行する賄賂や不正を無くするために懸命に働いた。だが、それも遠い昔のことであった。幸せだった暮らしは、もう欠片さえ残っていなかった。
「左門。それがしは今日まで清廉潔白であろうと心がけて生きてきた。だがそれは、正しかったのだろうか」
何を言っているのだろうという顔で、左門が格之進を見た。
「正しいに決まっております。清廉潔白でなければ武士ではございません」
「だが、それがしが訴えたせいで藩を追われ、苦しい生活を強いられている者たちが何人もいる」
「不正に手を染めたのです。自業自得でございましょう」
(中略)
酔った格之進の語気は荒かった。
「それがしがおらぬ間、お主をはじめ、皆が藩を支えてきたのだろう。それでうまくいっていたのではないのか」
「それは…」
「それがしが戻れば、また苦しいことになる。今さら藩に戻ることもない」

ここで柳田が自分は侍に相応しくないと言ってます。このセリフは映画にもあったと思いますが、ある種の闇堕ちしたのかなと私は思いました。

そして柴田を倒して、狩野探幽の軸を取り戻したあと、柴田討伐の報告と探幽の軸を殿に届けるために桜田門の上屋敷に向かった左門を、柳田があとを追いかけて呼び止めた場面。

立ち止まった左門が振り向いて格之進を見た。
「柳田様、どうなさいました」
「その探幽の軸、それがしにくれぬか」
「殿に背けと仰るのですか」
「金が欲しい」
およそ高潔な格之進が吐くような言葉ではなかった。左門は、信じられぬというように格之進を見た。
「お気は確かでございますか」
「正気だ」
柴田兵庫ではあるまいし、藩の大切な品物を我が物にしようとするとはどういうことなのだろうか…。左門は、格之進の真意を測りかねて困惑した。
「兵庫は、藩を追われた者たちのために、その軸を売ったと申していた」
「ただの方便でございます。現に探幽の軸はこうしてここに」
「だが、その言葉を聞いた時、それがしは嬉しかった。兵庫がそうしてくれていたならありがたいと思ったのだ」
左門は、格之進の表情を窺った。格之進の澄んだ目には、些かも邪心はなかった。やっと左門は理解した。格之進は、この軸を売って、自分の直訴によって藩を追われて苦労している者たちの窮状を救おうとしているのだ。
「左門、頼む。この通りだ」
左門は、呑み込んだ。
「この軸、それがしは見なかったことに致します」

*太字は当note筆者による変更です。

この太字にした地の文は、映画版では役者の演技力と監督の演出力、そして観客の読解力に頼ることになるのですが…

申し訳ないけど、草彅剛の目から「些かも邪心はない」ということは私は判別できなかったですし、奥野瑛太の「やっと理解した」ような演技には見えなかったですねー。映画を観てる時は「まあ何か理由があるなら」と思って柳田を信用して左門は従ったんだろうな、くらいに思いました。

繰り返し書きますが、映画版の柳田は娘に約束した家賃を帰り道で捨ててくるギャンブルカス野郎なので、そんな高潔な人には見えませんでした。

そして、これは最も重要なことですが、こうして地の文で説明されても、殿を騙して、藩の貴重な資産である狩野探幽の軸を売り払って、それを過去に自分が不正を暴いた人達に分配する、という行動の正当性に納得できません。

盗んだ軸を売って儲けた金で、人助けなんかして嬉しいか?

しかも、そんな貴重品を質屋に捌いたら、すぐに噂になりまっせ?(笑)

柴田が貴重な軸を持っていて、それを柳田たちが持ち帰ったことは、大晦日に多数の人達に見られているんです。それも互いの命を賭ける碁として非常にドラマチックな勝負をしただけでなく、そのまま斬り合いになって、何人も怪我人が出て、柴田兵庫がそのまま首を斬られた大事件になったんですぜ。

隠し通せるわけがないです。その噂話が殿の耳まで届いた時に、責任を取らされるのは梶木左門なんですよ?

もしくは、柳田は藩に戻る意思がないから、罪人になって、指名手配されても良いと考えているのかしら?

だけど、一年後には柳田はのこのこ江戸に帰ってきて、呑気に娘夫婦と孫と一緒に暮らしてるから、それは無いよな?

そもそも金を受け取る側の人達も、複雑な心境じゃね?

それとも、これが享保の時代の、人々の考え方のスタンダード?

▼映画の後日談:

柳田はお絹と弥吉の祝儀を抜け出して、誰にも本心を言わず旅に出ます。狩野探幽の軸を三百両で売り払って、日本各地を巡り、かつて自身が苦しめた者たちやその残された家族に金を配って回ります。柳田を恨んでいた者、自身の罪に後悔していた者、色々あったようですが、半ば強引に渡したり、和解するなどしながら、一年近くかけて金を配り終えて江戸に帰ってきます。

しかし、柳田が源兵衛と再会することはありませんでした。柳田の本心を知らない源兵衛は、大事な友の信頼を失ったという傷心から、「一から出直す」とだけ書き置きし、家督を弥吉に譲って、ちょうど江戸から姿を消した直後だったからです。

それから十年の月日が流れ、柳田とお絹と八歳になったお絹の息子の三人で、彦根のお絹の母の墓参りに行きます。東海道を進み箱根を越えて、島田宿に差し掛かったところで大雨で大井川が数日川止めしており、どの宿も空き部屋がなく路頭に迷っていた三人を、通りすがりの者に助けられてある旅館の離れを貸してもらいます。実はそこの主人が源兵衛で、柳田と源兵衛は奇跡的な再会を喜び、囲碁に興じる…という場面で小説は終わります。

うーん。

映画のエピソードとして十年後を削除するのは賢明な判断だったと思いますけど、何も言わずに結婚式を抜け出して旅に出た柳田の行動はやっぱり理解に苦しみますねー、正直。そのせいで源兵衛は心を痛めて家を捨ててしまっているわけですから。(苦笑)

「一筆、書き残し置き候。この度、私の不手際より失い難きものを失いしこと、悔やみても悔やみきれず候。それは店にあらず、富にもあらず、ただ友なり。人としての信を失い、最愛の友を失い、いかようにも償う術もなく。さすれば、萬屋は弥吉夫婦に譲り、私は初心に立ち戻り、今一度信の一字を取り戻したく存じ候。一身の我がまま、お聞き分け下さりたく願い申し上げ候。萬屋源兵衛」

それもこれも、全て、10年後の島田宿での再会エピソードをドラマチックに描くためのご都合主義のようなものを感じてしまいます。(苦笑)

どういう意図があって、この展開にしたのでしょうか。加藤正人さんは高明な脚本家なので、何かしらの意図があるのだと思うのですが、私には少し理解できません。源兵衛の「出奔」には、どういう意義を持たせられるのか、なんとかして知りたいものです。

実は、お絹と弥吉の息子の名前は源兵衛です。それは柳田が「どうしてもと言い張ってつけた名前」であり、「源兵衛がいなくなってから授かった子だから、きっと神様が代わりとして萬屋に使わしてくれたのだろうということでこの名前にした」ということです。小説版には、それを聞いた源兵衛が胸を打たれ、感極まる場面があるのですが、、、もしかして、そのため?

なんか昼ドラみたいでずるいわ〜。(笑)

碁盤斬り 柳田格之進異聞 (文春文庫)
著者:加藤正人
出版社 ‏ : ‎ 文藝春秋
発売日 ‏ : ‎ 2024/3/6
文庫 ‏ : ‎ 288ページ
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4167921842

映画『碁盤斬り』は、落語の演目として長く親しまれてきた「柳田格之進」を題材に、『日本沈没』『クライマーズ・ハイ』『凪待ち』などを手掛けてきた脚本家の加藤正人さんが、3年半の月日をかけて書き上げたストーリー。
この映画の世界を、加藤さん自身が小説として書き下ろしました。
登場人物の細かな心情の描写はもちろん、映画では描き切れなかった若き日の格之進の姿、また映画のラストの「その後」がしっかりと描かれており、小説好きの読者も十分に楽しめる作品です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4167921847/

(了)

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