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ミモザの候 24: みどりいろ、だいだいいろ

外来の受付を通ってホールを抜けたその先に、閉鎖病棟につながるドアがある。ドアを開け、先導されて階段を上がり、また一つドアを開け、棟を繋ぐ長い渡り廊下を進む。そして、また階段を上がって、ドアを開け、給食室のわきを通って面会室につく。これまでのすべてのドアには施錠がされ、付き添いの職員が一つずつ開けていく。渡り廊下や面会室の窓には格子がはいっている。この精神病院のエントランスから続く消毒薬の臭いは、奥深くどこまでも漂っていた。

 

夜間救急に運ばれたあの夜、父はこの精神病院に転院し、そこでまるまる1か月過ごした。

認知症の患者が精神病院の閉鎖病棟へ入る、この現実を、私見はべつとして、今となってはあり得ることだと思うこともできるが、当時はなにかマジックにでも騙されているかのように感じた。

外来では思春期外来や不登校相談も受けている。この街に古くからある精神病院が社会の要請に応じて世間に「開かれた」形をとっている、そのしぐさがありありとわかる。

はからずも状況に投げ入れられてしまった私の目に、それらはむしろ、旧来からの精神病院としてのアイデンティティを譲らない、という意地として映った。

 

社会の制度がいくつも重なるその間際にたって、この病院にはここの世界が回っていた。

それは、私たちにはあがないようのない世界だった。

 

週に1度、結局面会に訪れたのは3回だった。

「あの棟のどこかで、父はいったいどんな治療を受け、どんな時間を過ごしているのだろう」。車いすに乗せられて閉鎖病棟から連れてこられる父を迎えるとき、そして戻っていく父を見送るとき、私はこのどうしようもない思いをただ祈りに変えるしかなかった。

父の生命力を信じるしかない。私たちにできることをするしかない。

 

自宅から運ばれた時と同じパジャマを着て、父は最初の面会に現れた。車いすに座る父の髪は整えられていなくて体は傾いていた。薬のせいか生気はなかった。

正直に言って、父が、父のありようが、怖かった。この時ほどそう思ったことはない。そして、父をとりまく環境に恐れをなした。

家族はそれぞれに、現実の厳しさをかみしめた。

付き添いの介護士によると、今いろいろな検査をしていて肺炎の治療中とのこと。

もう、何がなんだかよくわからない。悲しさと寂しさと不安と悔しさが襲ってくるが、それさえも窓に格子のついたこの3階の部屋のなかだ。この想いをどう形にしていいのかわからない。消毒臭をなだめるように、冬の陽ざしの穏やかさだけが差し込んでいた。

「おとうさん、だいじょうぶ。がんばって」。家族が言えたのは、それだけだった。父の体に、それぞれが、触れながら、順番に同じことを言った。

反応のうすい父は、あっという間に棟へと連れていかれた。

皆、無言だった。そして、またあの長い廊下を歩いた。

 

2度目の面会を私たちはずいぶんと緊張して迎えた。父までの相変わらず長い道のり、それをこえて会いに行く。途中、庭の木々が目に入る。

そして、あの面会室に通される。父を待つ息苦しさをやり過ごそうと窓から外を眺めると、格子の向こうに大木の緑の冠がとどいている。そのさらに遠くに、マンションや住宅が密集したいつもの風景が広がっている。

 

ここには、ここの世界が回っている。

自分たちの世界とここの世界、この二つの世界を私たちは今、行き来しているのだ。

 

この時の父はずいぶんと元気になっていた。差し入れた服とは異なる誰かの服を着せられていた。付き添っていた以前とは別の介護士さんは父をよく知っているようで、脚のむくみのことや中での様子を少しだけ話したあと、面会室を出ていった。

 

15分ほどだろうか。あの日以来、初めて、私たちは家族だけの時間を過ごした。

父の表情はあきらかに柔らかくなった。安心して、嬉しそうに、声かけにうなずいたりしていた。

それぞれが腰を掛けて、くつろいだ(ような様子になった)。おもむろに、みかんを二つ、母はバッグから取りだし、「おとうさん、食べる?」と聞いた。

うなずいた父に、驚く私たち。

皮をむき、ひと房、父の口にもっていく。

父はそれはそれは穏やかに、おいしそうに、ゆっくりと味わっていた。最後にごくんっと飲みこんだ果汁が喉を下っていくのを、私はじっと眺めていた。

そして、もうひと房。

みかんのさわやかな甘い香りとだいだい色が、あの面会室を包みこんだ。

それは、未だことばにさえもならない希望だった。その気配を逃さないように、私たちの手からすり抜けてしまわないように、「おとうさん、だいじょうぶ、がんばって」とその希望に言葉を与えた。

 

そして、最後の面会。数日後には父の退院が予定されていたので、面会室に向かう私たちの足取りは以前よりもいくぶん軽やかだった。

棟をつなぐ廊下から外を眺めると、庭に広がる花壇が目に入った。チューリップといくつかの植物たちが植えられていて、水やりが終わったところだった。花はまだどこにも咲いていないから、庭はみどり色のグラデーションになっていた。

あぁ、もう春がくるのだ。

 

先週と同じ介護士さんに連れられて面会室に現れた父。リハビリを始め、友達ができたと聞いたが、その日も他の方の服を着ていた。父に顔を向けながら少し親し気に近況を報告する彼を見て、あぁ、父にも父のここでの生活が始まっていたんだなぁ、と思った。

おそらくこの頃、父はすでに介護士Uさんとの面会を済ませていただろう。「助けてください」と泣いて頼んだという父の、退院するのだ、という決意によるものだったのかどうかはわからないが、父という人が懸命にここでの生活をつくっていたという間違いない事実があった。

 

どんな状況においても、人は生活をつくっていかざるを得ない、いや、つくっていけるのだ、ということを改めて思った。

あの消毒臭のなかであってさえも、人は生きていく強さをもっている。

人の醜さのなかにもあっても、人は善き心を生きていく。

懸命に命を生きていく。

それは残酷ではあったが、崇高な現実だった。

 

食事時病棟に漂うお味噌汁の香りのあったかさは、人の命のしなやかさだ。

庭や花壇のみどり色は入院患者さんたちの植物療法の果実だ。

あのみかんのだいだい色は希望の香りだ。

精神病院の閉鎖病棟の奥深くには、たしかに、穏やかな世界があった。

 

退院の日。受付奥での清算には当時の父の状況として考えられない項目がいくつかあり、それもかなりの割高だった。

鼻をつく消毒液は表面から人を蝕み、やがて人を残酷にする。

相変わらず世界は、それぞれに、回っていた。 

2018年2月~3月
2022年9月27日 記

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