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塾という「場」 10 ー生徒の「まるごと」に寄りそうー ケア的な支援

(v)ケア的支援へ
すべての労働は、ケアリング労働だとみなすこともできる」とD.グレーバーは述べています(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブーくそどうでもいい仕事の理論』 307頁 岩波書店 2020)。
さいごに、この視点から検討してみたいと思います。
 
もし、「教育とはケアリング労働である」と仮定するならば、それはまさに、教育者が、『「もろさ」の強さ』を引き受ける、ということによってではないでしょうか。
 
それは、究極的には、己の人格を差し出す、ということでしょう。その覚悟が教育者に問われるのではないでしょうか。
 
ここで思考実験をしてみましょう。
ケアリングが下地になっている「場」、あるいは「居場所」としての教育者、生徒、教室、学校、家庭、教育等々をイメージしてみましょう。
そのような「場」の特徴は、共感、でしょう。
 
私たちは、そこで「かむ(身)かふ(交わす)」ことによって、情緒を学び、共感を育みます。場にただ身を浸し、わかろうとせず、味わってみます。一期一会の時空を味わい、まるで風景のように人を発見します。
 
このケアリングのイメージを維持したまま、それでは、狭義の学習に立ち戻ってみましょう。
 
教育、授業を「儀式」ととらえてみることにします(参照:前出『ネガティブ・ケイパビリティ』)。
儀式を通じて、生徒は「自分の生活のなかでの学習」を意味付けし、期待にむかって生活をつくっていきます。
 
自分は教育を受けているのだと生徒が感じ、学力が伸びていくのではないかと期待をもったとき、彼らの脳は希望を見いだして、彼らの「まるごと」から学びの力が導きだされてきます。こうして、新たな物語が紡ぎ始められます。
 
教育者は、まるでメディシンマンのように、ネガティブ・ケイパビリティを発揮しつつ、教育という「儀式」をとりおこなうなかで、生徒の「希望する脳」に寄り添い見届けます。文化としての己を差しだして、処方としてそこに在り続けるのです。
 
さて、主体的に生活を整えていくこと、生徒のなかでその歯車が回り始めることは、大和ことばの「さきわひ」のイメージにつながるように思います。
 
「幸い」とは、「さきわひ」のことで、
・心のなかに花が咲きあふれ満ち溢れてずっと続く
そうした幸福感のことです。
・心地よさや収穫の喜びをもたらしてくれる状態をさし
・みんなで幸福をわけあって喜んでいる感じ
をイメージします。
 
ケアリング労働としての教育が、『「もろさ」の強さ』を引き受けることに始まり、寄り添い見守り続けることをつうじて、自らの人格を薬として差し出すことだとすれば、教育者の教育者としての喜びは、いったいどこにあるのでしょう?
 
それは、人間の生命力を垣間見る、その瞬間を目撃する、ということではないでしょうか。
 
「どんな状況にあっても、人間とは希望を失わないものだ」という、深い感銘をうける瞬間を、きっと皆さんも経験しておられると思います。
 ケアリング労働としての教育の実践者は、そうした崇高な喜びの瞬間に立ち会うことを許された者だといえます。その瞬間に、「さきわひ」がまたひとつ、実践者のなかに咲くのでしょう。

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