仏壇に手を合わせる。
ペットのインコの1羽が「ピヨ〜」と鳴く。
私は幼い時から祖父母と車で海山川、東京と出掛けることが多かった。時が経ち、喧嘩や口を聞かなくなったこともあった。でもその中で経験したこと、目で見たこと、今では教訓として胸に刻まれている。
壁に飾られた写真が、少しだけ微笑んでいるように見えた。
あれから5年。
この季節を迎えると、毎年思い出す、あの激動の1年間。
在籍していた高校は、至って普通の県立高校。
そして、
高校3年生となれば、あらゆるイベントに「最後」という言葉がつく。
「最後の文化祭」「最後の総体」「最後の...」
私にとって高校最後の夏...
夏に差し掛かる少し前
初戦でベストを更新し、調子が上がってきたかな?と感じていた時、肘を痛めた。
投擲種目としては致命的、筋肉痛ではない痛みだった。
ヤバいかな...
そう思いつつも迫り来る最後の夏に
全身全霊、戦い続けるしかなかった。
当時はやり投の他に、砲丸投、円盤投も並行して取り組んでいたため、単純に体に負荷がかかる。
近くの治療院に通い、リハビリと同時進行でトレーニングを進めた。
皆が受験に向けてスタートを切っていた時、
皆が文化祭に向けて準備を始めた時、
私はいなかった。
「早く諦めて勉強しなさい」と先生には幾度か呼び出され、名指しで立たされた日もあった。
授業中、一人だけ当てられ続けるという地獄の日もあった。授業ボイコットして帰った日もあった。
出席日数だけは守ったが。笑
反対を押し切り、結果を出す、最後ぐらい勝ちたい、犠牲にしたものの方が多かったと思う。
5月、6月
県大会では三冠、東北大会も3種目入賞、駒を進めた。その時にはもう肘がギリギリ、腰椎捻挫、半月板痛め、耐えるしかない。
陸上部の同期が皆引退し、一斉に受験モードに入った。一人でやる孤独を感じたとともに、仲間がいる有難さを知った。それぞれの目標に向かって歩み始める。
8月
「最後のインターハイ」
高校生の大舞台。投擲3種目出場。
怪我は治らなかった。
間に合わせられなかった実力不足、悔やんでも仕方がない、“ぶっ壊れてしまえ”と思い、臨む。
予選と決勝の合間
応援してくれていた祖父母が、急に入院する事態になった。体調が急変したようだ。
心配ではあったが、動揺していられない。気持ちを切り替えて、決勝へ。
思いだけは人一倍懸けていた。
結果、最高順位は12位。
爪痕を残せなかった自分に苛立ち、心底落ち込んだ。涙すら出なかった。肘は千切れそうな痛み。
その様子も知らず顧問は、「どうだった?」と聞いてきた。現地にいるのに速報サイトで結果を確認したようだ。その時間は他校の生徒に日傘をさしてあげていたらしい。
その日から日傘が嫌いになった。
ただ猛暑で勝ち抜くためには日傘よりも、
余力を残していく作戦が必要だ。全力なのは皆同じだから。
先に怪我を治し、国体までの2ヶ月間考え直すことにした。
結果10日間学校を休んだらしい。
帰ってくると、どの科目も教科書10ページは進んでいた。同じく17歳という青春も皆10ページは進んでいた。
机の中に詰め込まれた問題用紙が
まるで現状を揶揄するかのように見つめてきた。
次の日
入院した祖父のところへ見舞いに行き、結果を報告した。
「今回はうまくいかなかったけど、次、頑張るから。(祖父も)頑張って」
「なも、たいしたことねじゃ。すぐまた戻る」
流暢な津軽弁と、相変わらず強気な姿勢は安心させてくれる。
しかしその日から
病院へ介護しに行く日が続いた。
学校、練習、お見舞い、受験勉強、家の仕事。
高校生の2つ目の大きい大会
国民体育大会(10月)までの1ヶ月間が
あっという間に感じた。
すっかり夏が終わり、日が落ちるのも早くなる。
野焼きの匂いが秋の訪れを知らせる。
文化祭の結果を聞いたら、模擬店は最下位。赤字だったそう。なんだか笑うしかなかった。
福井国体へ
すっかり秋晴れが心地良くなっていた10月。肘のサポーターが取れ、ようやくやりを持って投げられる。その開放感がやる気を後押しした。
学校ではすっかり受験対策。センター試験の過去問がずらりと並べられていた。試験まで後何日!の紙が至る所に貼られている。ちなみに私は“赤本”が何者だったのか、受験が終わってから知った。笑
この頃、祖父が癌であることが知らされた。
「ホームラン打つから手術を受けて!」のアレの流れではないか?
また1週間くらい空けることになる、そう伝える。
「はえぐ帰ってきてけ。」
2ヶ月前と違い、どんどん弱気になっていく祖父が見るに耐えられなかった。
そんな中迎えた国体。
特に期待はせず、思いっきり投げれたらいいな!ぐらいの気持ちで臨む。
握った槍が軽く感じた。というか、握ってる感触も無い。フワフワしていた。この感覚は今も昔もこの時しか味わっていない、なんだったのだろうか?
1投目はいつも短助走で投げる。
感覚と槍の帳尻を合わせる、と思いきや自己ベスト(当時の)更新!
2投目からは全助走。
そして3投目...
ん?やりが落ちてこないぞ?
スピード、力感、角度、風向き、全ての瞬間が1つになった。今でも鮮明に覚えている。その感覚に感動した。何故だろう、何故うまく合ったのか、見えない力が働いたのだろうか、そうとしか思えなかった。
自己ベスト、優勝記録、県記録。(当時の)
その瞬間に溢れんばかりの涙が出てきた。天を仰ぐ。見にきてくれていた親も号泣。
まだ決勝3本残っているのに。笑
案の定、抜かれることなく無事試合終了。
後半3本はもうズタボロだったが、勝てたから良かった。実感こそ湧かなかったが、親の涙を見て心が震えた。
「全国制覇」
1つ夢を叶えた。
意外に頑張れるみたい、こんな自分でも。
中学の時からお世話になってる方が取材に来てくれ、一言。
「待ってました」
「もう少し、早く報告したかったですけどね笑」
優勝ムードのまま、帰宅。
学校をまた1週間休んだ。
出席日数はギリギリ笑
どの科目もセンター試験の過去問が一回りしていた。机の中には3年分の過去問が溜まっていた。綺麗に折り畳んで、ゆっくりと机にしまう。
そしてすぐ
入院中の祖父母に報告。
賞状と副賞を渡す。管だらけの体で一生懸命起き上がり、小さい声で「わいは〜」と言いながら病院の机に立てかけた。
真っ白な病室の中で、時間だけが過ぎて行く。尊く儚い、明日さえどうなるかわからない。私にできることは、次の試合を楽しみに生きてもらうことだった。
「次は高校最後の試合。名古屋、頑張ってくる」
その数日後、入退院を繰り返していた祖母がICUに入った。緊急手術することが決まっていたらしい。練習どころでは無かったが、行くしかないので飛行機で名古屋へ向かった。
U18日本選手権
今までに無い緊張感と、試合の高揚感が入り混じる。あまり練習できていなかったことが、変に自信になった。なんとかなるっしょ!
1投目、2投目、3投目、
うまくハマらない感じが続いた。もう少しでタイミングが取れそうなところ。5位で決勝を迎える。
4、そして5投目
合った!!!
いい風が吹き、またもや50mのラインを越え、首位に躍り出た。風が味方をしてくれた。この幸運の感じ、なんなんだろう?
優勝。高校2冠。これはデカい!嬉しさ爆発。
いい流れ来てる!
無事高校3年間の陸上生活に幕を下ろした。
喜びにビタビタに浸りながら、帰宅。次のステージへの弾みがついた。
帰ってくるやいなや、現実は立ち向かってくる。
スンッとした表情で見つめてきた「受験」。
気づけば受験は2週間後。11月初旬。
筆記と面接、結局なんとかなるっしょ!と迫り来る現実に対抗する。
またもや1週間休んだ学校では
「逆に今日来てたんだ!」と言われるようになる。机の中の書類たちも、別で職員室にまとめられている。気づけば席も変わっていた。そして仲良かった子の彼氏も変わっている。全く別の世界で時間が動いているような気がした。
11月頭
筆記と面接をこなし、無事受験は終わった。あの試合以上の緊張はない。少しだけ余裕があった。
そういえばこの2ヶ月間、半分くらい学校を休んでいる。出席日数の欄に横線が引っ張られまくっていたらしい。後日見た時、気持ちいいぐらいのド直線だった。定規は使ってないと聞き、「先生スゴいな!」が友達との2週間ぶりの会話だった。
そして雪が降り始める。
日焼けして黒くなった肌もあっという間に色が抜ける。雪国特有かもしれない。
並行して、祖父母の入院介護は続いていた。
練習は一旦休み、学校と病院を往復する。
12月
来年には年号が変わる。時代が変わる。季節が移り変わる。
「平成の次の年号聞くまで、生きてねば」
よく病室で呟いていた。
病院に通い過ぎて看護師さんと仲良くなった。何故か新聞をチェックしてくれて、喜んでくれた。その優しさが、心が滅入ってる家族を安心させるための手段だと学んだ。先は短いと悟った。
「東京オリンピック、見に行かねばまねの」
ごめん、出られなかった。
雪混じりの風が病室の窓を白く染めた。
その日は2日前から病室に泊まり込み、
「外に出たいー」と唸る祖父を横に、親戚が集結した。迫り来るあの世。波打っていた心電図が、徐々に直線になっていく。
定規使ってないよね?そんな冗談も言えない。
「ありがとう」
最後にそう呟き、目を閉じた。
後日、
スポーツ賞の式典があり、スピーチをした。そこは祖父が生前お世話になっていた場所で、その事も知ってくれていた。
「きっとこの会場のどこかにいて、聞いてくれていたと思います。」
終わると同時に外から白鳥の声がした。
足早に過ぎていく季節を追いかけるように、また歩き出す。
年が明け、1月。
自宅介護をしていた祖母。連日ケアマネージャーと呼ばれる人が、家をうろついている。介護の仕組みや保険の仕組みがよーく分かった。
そして10月以降全く練習をしていなかった私は、家の雪かきでトレーニングを積んだ。
「派遣のお知らせ」
突然の通知に驚いたが、初めての世界の大会へ、切符を握ったらしい。期日は2月。あと少し。
学校はすでにセンター試験が終わり、受かった人と受からなかった人に別れる。今思えば酷だ笑
試験までカウントダウンされていた紙が、“卒業まで”に書き換えられている。あっという間だ。
2月に入る。
検査とのことで祖母が入院。
「気をつけていってくるね!お土産買ってくるからね!」とだけ伝え、
「早く帰ってきてね!」と元気いっぱい。
もちろん、お土産にはパイナップルケーキを買うつもりだ。なんせ、頼まれたから。
台湾に到着したその日の夜、夢に祖母が出てきた。元気にご飯食べてはしゃいでる姿だった。
元気なら何より。
結果
初めての台湾の試合を、大会新で優勝することができた。何故こんなにもトントン拍子で進むのか、嬉しさの裏に怖さも感じた。
試合も終わり、パレードを鑑賞する。
お土産も買ってある。喜ばす準備は万端。
そして帰路、飛行機で3時間ほど。
日本に到着し、東京から青森へ帰る。
楽しかった思い出と、メダルを持って。
異変を感じた。親戚が集合している。
介護用品、洋服、全て片付けられている。置いてあるのは林檎だけ。
疑いつつも母と目が合った。母の目は涙でいっぱいだった。嘘でしょ。
私が台湾へ旅立った日、祖母も旅立ってしまった。
今、仏壇にお供物としてあげている台湾のお土産に、実感が湧かない。つい先日まで会えた人に、急に会えなくなることあるの?状況が理解できなかった。
そして家に帰ると、鳥籠がいつもよりガランとしている。
え?
飼っていたインコ(2羽)のうち、
家中飛び回っていたような元気だった子が写真として飾られている。整理がつかない。
さすがにキツい。
得たものよりも、失ったものが多過ぎる。言葉も出なかった。
3月、
卒業式を終え、18歳になった。
当たり前のように感じていたあの日常が、もう無い。この一年で私を取り巻く環境は180度変わった。
降り積もる雪が時間と共に消えても、
この2018年の記憶だけは今も残っている。
最後に
祖父が病室で飾っていた言葉
自分の選んだ道を最後まで全うする。
心に決めた。