他人のペースに合わせる力
私は他の人の機嫌を感じ取る力がある。また、その力のおかげで、その人がどこまで物事をわかっているのかをある程度の精度で予想できる。自分がわからない話をされたとき、あるい自分にとっては「もうわかっている」ことを話されたとき、共感を呼んだり、理解できたとき、そのときの反応は、声色や表情、無言の圧力で「感情」という形で出てくることが多い。その反応から学習すれば、たとえ子供やお年寄りの方、障害のある方であっても、それなりに理解ができると思っている。他人の感情を感じ取りすぎてしまうことを、「デメリット」として捉えたり、逆に「なんで他の人は感情を読み取ってくれないのだろうか」と、悩んだりもしていたが、最近は「めずらしい(他の人はあまり持っていない)長所なのでは」と捉えることができるようになった。
この事に気づいたのは、最近子どもにギスギスしながら勉強を教えている母親を見かけたからである。全く知らない人であるので、どこまででも言えてしまうのが恐縮だが、こう子供に対して「かわいそう」と思ってしまう対応を取る親を見ると、無性に腹立たしさと、エンパスによる「自分も怒られてしまっている感覚」が襲ってきて、その場を離れようにも動けなかった。ここまでではただの嫌なエピソードであるが、八木仁平さんによるワークの中で、無意識レベルの怒りを覚えた経験は、自分にとって「できて当たり前」のことであることが多く、自分の得意なことや価値観が含まれていることが多い、という話を思い出し、自分の長所、少なくとも自信を持てている能力に気づくことができた。
親子の話に戻ると、子供は小学校1・2年生くらいと見受けられたが、母親が上手く理解してくれないこともに対してイライラを隠せず、親子共々、怒りをぶつけ合いながら宿題を進めていた。母親はおそらく、仕事がすいすいできるタイプで、上手くできない人の気持に寄り添う力がないのだろう。「早く終わらせて」「さっきやった宿題できてないから早く食べ終わって、続きやろう」と、子どものペースを無視して進めたり、子どもの考えを聞かず、一方的に「答えはこうだ」と強く言いつけている言動が続いていた。これでは子供は勉強が嫌になってしまうし、怒られたくないので早く答えにたどり着きたくなり、言うことを聞くため、何でもすぐに「親の指示待ち」になってしまう。それは全くその通りで、親が「言うことを聞け」と言わんばかりに正しさばかりを押し付けて、「早く理解しろ」なんて言われたら、言うことを自分の考えではなく、親の言うことを聞きすぎる子になってしまうのである。
子供好きでエンパスでもある私は、この親子が公共の場で堂々と強い感情によるバトルを繰り広げていることだけでなく、親が「相手を待てない」「子供を待てない」「遅い人を待てない」ことに対して、どうしても強い怒りを覚えてしまった。ということは、八木仁平さんの言葉から考えれば、自分にとって、「相手を待つ」「相手に合わせる」「遅い人を待つ」ことは、できて当たり前のことなんだと理解することができた。それはつまり、進むスピードを相手に合わせて変えたり、自分が思うスピードより遅く進められるということである。都会で制服のある恐らく私立名門?の学校に通っているものの、あの親子の行く末は心配でしか無いが、この気付きを与えてくれた親子に感謝である。
現在世の中のルールとなっている、一般的な資本主義の特徴として、「成果主義」による分配が市場主義として働いている。これはつまり、短期的に他の人より成果を上げる、スピード早く進んでいくことが評価されやすい。他人のペースに気を使っている余裕は普通はなく、先程の母親のように、「他の子よりさっさと勉強が得意になってもらわないと困る」し、「自分の話を理解できるようになってくれないと困る」という思いに駆られがちである。自然と、店から退店する前にゴミを片付ける速度もすごく速かった。どれだけイライラしているのかスピードに出ていた。徒競走で早くゴールに辿り着いたもの勝ちの社会なんだろう。この競争は依然としてこの社会に多くあり、人々は周囲から、スピードを求められるのが普通なのである。
しかし、この競争によって多くの人が不利益を被ったり、大事なことに目をつけられないで来てしまい、競争だけで世界全体を構成するのは人類として限界に近づいているのだろう。そこで、「他の人が発揮できない価値を発揮すること」が重要となってくる。私も社会人になりたてのころや、大学生になりたての頃は、競争に当てられて、「他人よりも頭が良くなってやる」「他人よりも早く出世してやる」という承認欲求バシバシの考え方をしていた。しかし、元々繊細であったり、平和志向が高かったこと、自己肯定感の低さ、自己犠牲癖など、たくさんの要因により、スピードの早い人生を頓挫させることが何度か合ったように思う。最近になるまで、まだ「スピード」で勝負できると思っていたのである。
それが、二度目の休職を味わい、自分と向き合ったり、先程の親子を見ることで、自分の価値を捉え直すことができたのである。私は競争原理で見れば、学歴はまあまあ高いものの、体力・継続力・泥臭い仕事をやり抜く力が弱いのである。他の強い人達と同様に弱肉強食でスピードで戦っていくことはほぼ不可能だったのである。そんな自分は、他の人のスピードを理解し、必要に応じて相手と同じく「遅い」スピードで進むことができるのだと理解した。
もちろん、理解し始めたばかりだし、誰よりもできるということはまったくなく、そこらの人よりは得意、あるいは個人が持つ能力の中で高めの能力である、ということなのだと思う。人に寄り添う力を仕事に発揮し始めて、上手くいかなくなり、自分の至らなさに辟易とすることもおそらくあるだろう。しかし、自分の中で「できて当たり前」と思えるレベルの自信を持てたことは、非常に大きな収穫であるだろう。
この、「他人にスピードを合わせる」技術は、具体的な職業としては、様々な種類があるだろう。子供への教育はもちろん、大人の技術教育、カウンセリング、あるいはコーチング、メンターなど、共に自分の能力も上げていける存在になることも有り得るだろう。例えば、一時的に仕事を中断せざるを得ない人たちに寄り添って、辛抱強く寄り添う仕事であれば、自分自身が仕事ができることより、どうすれば相手のためになれるかをより鍛えたほうがいいと思うし、技術教育、メンターなどをやっていく場合には、相手よりも劣っていては教えられることが殆どなくなってしまったり、力不足になってしまいかねないのである。教える内容や、他人に寄り添う技術など、ある程度自分なりに力をつけていかないといけない。
ただしこうした仕事の場合、それこそテキストを読めば簡単に身につくものではない場合も多く、経験も必要となり、能力向上のスピードを上げることは難しいかも知れないが、画一教育が根強い今、教育や仕事の技術向上について、「個々人に合わせる」ことの需要が高まっていくように思う。そうした需要があるからこそ、無駄な焦りはいらないので、自分の仕事を進めて行くうえで適切なペースを探っていけばいいのである。早く高みに辿り着いたもの勝ちではなく、得意・苦手がきっとさらに細分化されるんじゃないかと思っている。
私のこの特性は、言い換えれば「教えるのが得意」ということも言えるだろう。私も高校時代、友人に勉強を教える回数が多く、その時に、「教えるのが上手い」と褒められたことがあった。私はその時、ただただ素直に「自分は教えるのが上手い」と思っていたが、大学での経験や、社会人になってから、相手にわかりやすく説明することが上手くいかず、相手から「何を言っているのかわからない」と言われることも多かった。これは今思えば、私の頭の中ではINFPらしく、ほぼ四六時中想像が駆け巡っており、そのスピードに話す速度がついてこられず、論理の飛躍がおこるからだろうと理解できる。また、私は理系科目が得意なほどに、ある程度の論理的思考力を訓練で身につけられているが、基本はINFPとして、直感的な発想が第一に来るのである。数々の想像からアイデアの軸を作り、あとから論理的に肉付けしていくことが多い。これでは、中々その隅々まで、相手にとっさに解説することは難しい。そこから、自分は相手に説明をするのは下手なんだ、と思っていた。
しかし、改めて「相手のスピードに合わせることが得意」ということに気づけば、相手の理解度を度々確認しながら、補足説明を入れたり、相手の考えを促していくことが得意なのだろうと理解することができた。
スピードが高いこと、高みに行くことが求められすぎている、評価されすぎている社会において、個人の価値発掘や、居場所を作っていくことは、ものすごく重要なことに思う。他人との比較ばかりしてしまう現代人で、その悩みに困っている人がいれば、すこしでも支えになることができれば幸いである。