今更考える「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」の本当の問題
昨今、ビデオゲームの映像化のトピックが再び盛り上がっている。例えば、Netflixで配信を予定している傑作と名高い『Arcane』のシーズン2だったり、一方でAmazon Primeで配信されている『龍が如く』の改悪がひどいとか、なんにしろゲームの映像化は悲喜問わず話題になっている。
もっとも、筆者にとってゲームの映像化を考える上で避けては通れないのが、恐らく多くのゲーマーのトラウマにもなってしまったであろう『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』だ。
本作は、山崎貴監督の作品で『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』を原案として再構成され、2019年に公開された映画である。実際に見てことがない人も、恐らくその悪評ぐらいは知っているであろうという程に批判された作品であり、少し調べるとネガティブな見解が目立つ。
ところが、当時このゲームは半ばSNSやまとめサイトの「炎上」に巻き込まれる形で、あまり正しく批評されていなかったのではないか?と筆者は考え始めている。今改めてこの『ユア・ストーリー』について考えることは、ゲームの映像化という議論を考える上で、少なからずヒントになると思う。
「時代錯誤な説教」が問題視された、ユア・ストーリー
では『ユア・ストーリー』とはどういう映画なのか。基本的には『DQ5』を原案としているだけに、序中盤はその内容をなぞらえる。主人公(リュカ)の父親が殺されて冒険が始まった……というプロローグに始まり(ここをダイジェストにする点も批判されているが)、ヒロインとなるビアンカと結婚し、強敵を倒し、産まれた息子とともに、最終的には魔王に挑むという内容だ。
ところが問題視されているのが、終盤でとある映画特有の真実だ。というのも、実はここまで映画で描かれてきた冒険は未来のXRアミューズメントで再現されたものであり、主人公も「主人公=リュカ」本人ではなくかつて『DQ5』を楽しんだ男性だったのである。そして最後、謎のウィルスによって不具合を起こしたうえに、ウィルスは「これはただのゲームだ、大人になれ」的な説教をして、主人公はそれに反論して終わる。
このオチに対しては四方八方から批判が浴びせられた。特に「ゲームなんかやめろ」「いいやゲームはやる」という問答は、恐らく山崎監督なりのゲーマーへのエールだったのだが、その時代錯誤な説教臭さからかえって「いや、そんなの知ってるよ うるせえよ」という反発へと繋がったというのが、大方な批判のようだ。
筆者もまた、こうした意見にはおおむね賛成である。ゲームを原案に映画を作っておいて「ゲームっていいよね。俺はよく知らんけど、別にやっててもいいよ」と門外漢に言われる。どう考えてもバカにしているとしか思えない。筆者もまた当初、似たようなニュアンスで怒っていたと思う。
ところが、本当に今更ながら冷静に考えると、実はこの「怒り」は必ずしも本質をついたものではないのではないか、と考えるようになった。
「ドラゴンクエストV」のカタルシス
つまり「ユア・ストーリー」はもちろん悪い作品なのだけど、その「悪さ」への指摘はあまり正しくない、と私は考えている。
何故か。これは原案が『DQ5』であるからだ。つまり『ユア・ストーリー』の問題とは『DQ5』の真価を全く理解しないまま、むしろその真価と真逆の描写をしてしまったことにあるように思う。その点では、『ユア・ストーリー』への批判も実はその点をあまり踏まえてない人が多い。
では『DQ5』の真価とは何か。
これは、ある程度の「ドラクエ」ファンであれば知っている通り、「主人公が勇者ではない」という点に尽きる。そのために『DQ5』というのは、本質的に「アンチ・ドラクエ」もしくは「ドラクエ・オルタナティブ」だったのであり、それゆえに『ユア・ストーリー』における批評性みたいなものが最初から打ち消されてしまった点にある。
話を整理しよう。そもそもこの話は、主人公が父親(パパス)と連れ歩く幼少期から始まる。この幼年期では、主人公は父親にずっと保護され、戦闘も父が勝手に倒してくれる。つまり父親による庇護、愛情というものをゲームプレイの中で体験させている。そのうち、ビアンカという幼馴染や、ベビーパンサーと出会う中で、情操を育てていく。
ところがこの幼年期は、光の教団を名乗る魔物たちの襲撃によってあっけなく終わる。父は身を挺して主人公をかばい、死ぬ。そうして主人公は奴隷の身となり10年を過ごす。そんな苦境の中、辛うじて奴隷の身から逃げ出し、両親から託された「伝説の勇者」を探すという使命を受け、一方で妻と出会って結婚する。
そして紆余曲折を経て主人公は妻との間にもうけた子どもこそが、探し求めていた「伝説の勇者」であると知る。その後は、勇者である子どもを強く育て、彼らに着せるための装備を与え、最終的には一家で諸悪の根源たる魔王ミルドラースを倒す……という内容になっている。
まさにこの、主人公が勇者ではないという点が、『DQ5』の画期的な点だった。つまり「ドラクエ」が古典的RPGから「勇者」という超人的なロールのプレイへと置き換えたのに対し、『DQ5』はその「勇者」を育てる「親」をロールプレイするということに転換していったことが、重大だったのだ。
従来のDQと類型のRPGは、ロールプレイにおけるロールを「勇者」という神話的英雄として用意し、少年少女にもわかりやすい全能感ある冒険を楽しませてきた。それに対し、『DQ5』はそんな「勇者」を見守る立場である存在……つまり「親」という立場に立脚しつつ、それも自分自身が父とともに育った幼年期を予め経験しておくことによって、「親」のロールプレイという新たなJRPGの独自性を見出していった。
だからこそ、本作では比較的、主人公は等身大の人間として描かれる(王子だったり、エルヘヴンの血が流れていたり、特別な存在としては描かれるが)。目の前で2度も両親を失い、魔族にはやられて奴隷にされ、我が子の成長に寄り添ってあげられなかったりと、全能感を意図的に削ぐような演出が多い。一方でそれは、等身大の人間だから感じられる苦悩や葛藤、それを乗り越えた末の人間としての喜びがある。
その象徴が、本作を最も際立たせている「結婚」システムだろう。少々下世話な話題にまとめられがちだが、たった一人の異性を愛し、その人との間に子どもをもうけるという喜びは、現在に生きる多くの人が共有する至福であり、また同時に神話的「勇者」が恐らくその冒険中に得ることがないであろう人生の過程だ。「勇者」は運命のために生きるが、人間は己自身で運命を拓くのである。
その点で、クライマックスの「わが子こそが勇者であった」というカタルシスもまた、人間としての至上の普遍性のあるものだ。要するに、どんな親にとって、仮にどれほど平凡な子どもであっても、彼・彼女は紛れもなく特別な、神に祝福された「勇者」であるのは違いない。そしてその「勇者」のために、自分の半生をささげるというのもまた、世の遍く人々が行った喜びだ。
全体で見れば「いつものドラクエらしさ」は維持されているものの『DQ5』はシリーズを通じても随一、「ドラクエ」(とそれに倣ったRPG)に対する、非常に鋭いオルタナティブを投影している。それはつまり、勇者ではなく人として生きるということ、自分のためでなく誰かのために生きるということ、そこで得られる苦悩と至福を味わうということ……。
つまるところ『DQ5』とは、物語のファンタジー性を抜き取ってしまうと、どこにでもいる人間の、どこにでもある人生をロールプレイしているという点こそが、最大のカタルシスになっている。
(余談だが、魔族陣営で圧倒的に主人公にとって因縁のある「ゲマ」が魔王(ミルドラース)でも、その前座(イーブル)ですらない、ただの中間管理職だったのも対照的だろう。)
ゲームの映像化について思うこと
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