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やつらの足音のバラード ギャートルズと初めての哲学的体験
「はじめ人間ギャートルズ」がアニメ化(当時の言葉で言えばテレビマンガ化)されたのは、私がまだ小学校へ上る前だった。
私が、園山俊二のマンガに触れたのも、この作品が初めてだった。
はじめ人間たちは石器時代に生きる原始人で、今のように食べ物が当たり前に手に入るわけではない。
人びとは、なんにもない大平原で動物たちを追いかけ回して日々の糧を得ていた。
どでかい落とし穴やワナを仕掛けて、マンモスやイノシシを追い込んでいく。
そして、皆で石斧で獲物をドンドン叩けば、みるみるうちに輪切りの切り身肉に早変わりした。この肉を人びとは生のまま、もしくは軽く炙ってバクバク食べるのだが、それがまた美味しそうに見えた。
今でも、カツオのたたきを見ると、イメージ的に、ギャートルズのあの肉を思い浮かべる。そして、はじめ人間になった気分でかぶりつくのだ。
また、人びとが大声をはりあげると、その言葉が石となり、空からバラバラっと落ちてきた。地上には言葉のカケラが砕け散った。
「そうか、石というものは、このようにしてできたのか」と私はすっかり感心してしまった。
それから道端や空き地に落ちている石を見るたびに、空を見上げ、はるか太古に叫び声を上げたご先祖さまに思いを馳せたものだった。
このアニメで印象的だったのは、エンディング曲だ。
やけに心をしんみりとさせる感傷的なメロディーに乗せ、シンプルな言葉で何やら深いことを歌っていた。
その深さは、当時まだ5歳だった私にもよくわかった。いや、5歳だったからこそ聞き流すのではなく、この歌の言葉をしつように反芻し、その言おうとしていることを真っ正面から理解しようとした。
小さな子供だったのだから、まだ哲学なんていうものの存在を知る前である。
しかし、哲学的体験というものがあるならば、私が初めて体験したそれだったのかもしれなかった。
あとから思えば無常観にも近い概念についてじっくり考えた最初の機会だったのだろう。
それは、30歳を過ぎてから読んだガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」から受けた感銘に近いものだったように思う。
なんにもない なんにもない まったく なんにもない
生まれた 生まれた なにが生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた
星には夜があり そして朝が訪れた
なんにもない 大地に ただ風が吹いてた
吹いてた 吹いてた
原作者の園山俊二が歌詞を作り、かまやつひろしが作曲していた(当然、当時はそんなことは知る由もなかったが)。
この歌を保育園の遠足で友だちと歌って歩いていたら、引率していた女性の先生がやけに感動してしまって、これはいったい何という歌なのか、と聞かれたのを覚えている。
この歌をはじめ、かつてアニメのエンディング曲には、しみじみ味わい深いものがとても多かったように思う。
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