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SNS依存症の私がフォロワー300人だったTwitterを辞めた理由

2回目のTwitterを辞めた。
意地でもXとは言わない。
だって私を創ってくれたのはTwitterだから。
こうして辞めたことをわざわざnoteにまで書いたのは、決意表明として今の気持ちを残しておきたかったからだ。

私がSNSをやめる発端はいつも一緒で、
「推しが大好きだけど全然思い通りにならない世界に失望したから」だった。

自分でも、なんて自分勝手な理由なんだろうと思う。そして、情けなくて甘すぎる。
何を当たり前なことをこの期に及んで「私、凄いことに気づいちゃいました」みたいな顔をして言ってるんだと。

いつも勝手に消えて、戻ってきて、病んでばっかのツイートばっかりして、フォロワーの皆には本当に申し訳ないことをしたと思う。
色々失望させることを言ったり、該当するフォロワーもいるのに嫌味を言ったり、人として終わったこともいっぱいいっぱい言ってしまったのに、「力になるよ!」とか「お互い様だよ!」とか言ってくれて本当に嬉しかった。
あの時感じた、人の温かみはきっとこれからも忘れないだろう。

かなり前、noteを始めたての頃に、こんな記事を書いた。
毎回こんなことをしている。本当はやりたいのか、やっぱり辞めてしまいたいのか、自分でもわからなくなるくらい、同じことの繰り返し。

実は、この下書きはずっと前から温めていた。
タイミングがわからなくて、「ちょっと違う」を繰り返しているうちに、いい感じだったハッシュタグのそれっぽいキャンペーンも終わっていた。
私がTwitterを辞めてから、もうすぐ4ヶ月になる。

簡単に言えば、推しの投稿を見てたら、病んだ。
これがSNS断ちのきっかけ

推しはかわいい。暗くてじめじめした私の世界をいつも明るくしてくれる。笑顔にしてくれる。
何にも良いことなくって、誰も味方でいてくれないと思った時でも、なんかもうちょっと生きてもいいかなって思わせてくれる、そんな力がある私の推し。

ちょっと苦手な系統のドラマに出るとか、公式から不遇な扱いを受けているだとか、そういう小さな積み重ねが私にはしんどくて、病んで怒って部屋で一人暴動起こしてるだけ。
結局悪いのは全部私なのだ。
そんなこと言われなくても全部全部わかってる。

数年前、もっと沢山のフォロワーと繋がってた時も人間関係がめんどくさすぎて辞めた。
それが、今回のタイトル。
だからこれは2回目の消滅。
その時は何年も同じ界隈に居座ってたから変にフォロワーだけ増えて、中身のないうっすい繋がりばっかりになったのが耐えられなかった。
界隈の低年齢化も相まって、推しのチケットが当たった報告とか、推し同士を勝手にカップリングして盛り上がる人が増えて、げんなりすることが多くなった。そういう理由。

段々ツイートの数が減り、リツイートだけになって、何も言わずに消えた。
別に追ってくる人はいなかった。
所詮、それくらいの距離間の人たちだった。
アカウントを消して後悔したのはフォロワーが減って懸賞に当たりづらくなったことくらい。あとはスッキリしただけでメリットしかなかった。

その後は就活などが重なっていたこともあって、暫くは仲の良い友人と鍵垢で話すくらいで、ほとんどSNSから離れていた。
離れた方が良いことは、この時も充分に理解していた。
画面を開かなければ、変な争いやマウント、偏った思想の持ち主に振り回される機会なんてない。地に足をつけ、自然の声に耳を傾け、長い長い1日を過ごす。それが自分の身体や精神状態にどれほどの良い影響を及ぼしているのかを、身に染みて感じていた。

のに。
長年にもわたって染みついたツイ廃民としての気持ちはこんなことでは終わらなかった。いや、終われなかったのだ。

就活も落ち着いた頃に、うっかり推し同士の共演が決まって呟かざるをえない状況になって戻ってきた。同担拒否すぎて推し歴マウントを取りに行ってしまったのだ。
今考えても、これが過ちだったとしか思えない。

名前もすべて変えて、細々と自分のペースで推し活をしようと思っていた矢先に、前垢で繋がっていた友人に話しかけられた。
正体を明かさざるをえなくなり、そのうち鍵垢で喋り続けていた友人が消え、辞め時を失った。
そこで潔く辞められたらよかったものの、私はそこから何年も、よくわからないモチベーションのまま、ずるずるとアカウントを持ち続けていたのだ。

ちっちゃいことですぐ失望、落胆、絶望の三拍子を取ってしまう私にはやっぱりSNSは向いていないのだと思う。
精神を病んでメンタルクリニックに行っていた時、カウンセリングの先生に「自他の境界線が曖昧」だと言われたことがあるのだが、これが妙に腑に落ちた。

たしかに、私は人間は話せば分かり合えると思い込んでいるし、『私はあなたのことを全部理解するから、あなたもそうしてよ。』みたいな考え方が根底にある。これを周囲の人に押し付けるのも大変よくないのだが、私の場合は推しにもその気持ちをぶつけがちなところがある。

だから、「推しとも対等な関係性でいたい。」「ファンサする人ともらう人みたいなそんな面白くない関係は望んでない。その先にいけると思ってる!だって私達は同じ人間なんだから!」なんて、思っているところがある。
自己肯定感マリアナ海溝のくせに、こういうところはメンタルがおかしい。言葉を選ばずに言えば、ただただキモい。

もちろん、そんなことを言ったら事務所から即レッドカードのブラックリスト待ったなしなので一切行動には移してはいないし、今後移すつもりもない。だって対等な関係になるには私が芸能界に入るしか道がないのだから。

百害あって二理くらいのSNSだが、距離を置くことで怖いのは、推しの情報が追えなくなることだと思う。
実際、今も私はSNSから離れたことで、推しの情報を得るのに出遅れまくっている。
気づけば知らないドラマに出演が決まっているし、私の知らないところで現場が開催されていたりもする。そして何より、推しのオフショが見れない苦しみを現在進行形で味わっている。

少なくとも今の私なら、もし何らかの理由でSNSに戻ってくることがあった場合、その空白の期間に得ることができなかった情報量によって他のファンに後れを取っている=負けているという考え方に間違いなく囚われてしまうだろう。
そして、後れを取り戻そうと得た情報量を処理し切れず、また今回のように精神を病むことになる。もうその光景が目に見えている。

SNSが発展しすぎた現代では、推し活をネットなしでエンジョイしようという方が難しい話なのだ。試写会の応募も、チェキのプレゼントも、推しと直接やり取りできるのも、全部SNS。夢は多いけど、敵も多い。
そんな日々情報が更新される世界に置いて行かれるのが怖い。他の人が自分よりも推しと近くなってしまうのが怖い。
辞めるなら、もう帰ってこないと腹を括らないと、間違いなく、心が砕け散ってしまう。
私は、ずっとこれが怖くてSNSから離れることに恐れているのだと思う。

インスタグラムに関しては、今回こそは推しにコメントするぞ!と決めて始めても、当たり障りのない文章を考えるのに30分くらいかかって疲弊していたし、推しが他のファンのストーリーを引用していてアカウントを削除した。それも4回くらい。
推しが悪くないのは、知ってるのに。
でも、目に入ってしまうだけでも取り乱してしまうくらいの精神状態なら、見れない状況を作り出さないとどうしようもないわけで。

一度、推しが出ていたイベントの観客参加型のコーナー内で、最前の女の子がファンサを貰う瞬間を目にしたことがある。同担だった。
失礼だけど、あんまり被ることのない私の推しが目の前で私じゃない人に楽しそうな笑顔で会話をしていた。
年の近い、推しへの愛情が全身に滲み出ていた女の子。同じ性別、同じ推し、同じくらいの年齢。私は後ろから4列目くらいに座っていた。
パソコンとにらめっこしながら、ページを行き来して、再読み込みを繰り返して、やっと取れたチケットで、来なければよかったと思った。
終演後に配られていたアンケートもすっぽかして、半泣きで2駅分、歩いて帰った。
もし私があの子だったとしても、あの子みたいな真似はできない。
格の違いを見せつけられたような気持ちだった。

あれより死にたい日はなかったかもしれない。
どうせ、SNSをやっていてもやっていなくても、当たってしまう時は当たってしまうのだ。
人生、避けられないことはあるんだから、ちょっとでもその悲劇に当たる確率は減らしていった方が良い。

最近のSNSは、アカウントを持っていない人に対して厳しすぎると思う。
そりゃ推しを応援するためにアカウントを作るのは、運営からしたら当たり前なのかもしれないけど。TwitterもインスタもTikTokも、アカウントなしで制限なく見られるようにしてほしいと、常々思っている。

SNSなんかやらなくても、推しの聖地には行ける。サインが欲しかったら雑誌から応募できるものもある。チケットさえ手に入れば、推しには会える。
ただの負け惜しみかもしれないけど、無理して誰かと繋がって自分の人生をめちゃくちゃにされるくらいなら、多少の負けを認めてでも、私は1人で生きていくことを選びたい。

それまで私はTwitterもInstagramもやらない。
もう、傷の舐め合いは辞めたのだ。
私は自分の足で、自分の人生を生きていく。
いつか大好きな人と対等な関係で話せる日が来ることを心待ちにしながら。

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栖山 依夜
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