【炎上覚悟】そこまでして長生きする必要はあるのか【第2弾】
炎上覚悟第2弾の記事になります。
シリーズ化するつもりは全くなかったのですが、言いにくいことを思い切って言ってみたら案外スッキリしたし、思ったよりも共感してくれる人がいてめちゃくちゃ嬉しかったので続けてみました。
記念すべき第1弾はこちら。
知っている人は知っているかもしれないが、私は〈介護士〉という職業に新卒で入った。理由は簡単で、話すことが好きだから。デスクワークが苦手だから。あとは、静かな環境にトラウマがあったから。あとは、かなり能無しな自分でもスキル皆無からスタートして大きな問題がないと思ったからだ。
そしてもう一つ。こういう言い方をすると間違いなく語弊を生んでしまうのだけれど、敢えて言おう。私は遊びの延長線みたいな仕事に就きたかった。
もちろん、介護の仕事は本気で取り組んでいたし、いろんな介護会社の説明会を聞いて回ったから、仕事の大変さは十分に理解していた。だから、生半可な気持ちは一切ない。
ここでいう遊びの延長線とは、仕事=デスクワークみたいな典型的イメージから大きく外れる仕事ということ。業務中に立ち歩いても、雑談をしても怒られない。そういう意味で、私は介護の仕事を選んだ。
だがしかし、だ。
結局その仕事は半年も続かなかった。もともとなかった体力が尽きる前に、精神的に限界を迎えてしまったからだ。
昼食を取り終えて部屋に戻る利用者の車椅子を押しながら、ふと目に入った窓の外の景色を見て、このまま飛び降りたら一瞬ですべて終えられるのになぁと思ってしまったことは忘れもしない。
ほんの数か月という、人生の先輩たちから見たら社会経験とも言えないような短い期間だったが、私は間違いなく考え方が変わったことがある。
それがタイトルにもある通り、長生きをすればいいものでもないということだ。
私は介護士として、認知症の人々をすぐ傍で見てきた。
すると、同じ"認知症の高齢者"という括りに入る人でも、人によって大きな違いがあることがわかってきた。
いつも笑顔で、優しく、必ず「ありがとう」と言ってくれる人。
いつもムスッとしていて、急に怒鳴り、思い通りにならないと喚く人。
同じ「認知症」なのに何もかも正反対の人がいる。
症状や認知症の種類などによって、性格が変わってしまうということもあるので、生まれつきの性格以外にも要因は考えられるが、前者のような性格の人は誰からも好かれており、後者のような人は家族からも除け者にされていた。
こうした性格の違いはどこから来るのだろうか。
前述したように、病気の症状として別人のようになってしまうことも認知症では少なくない。昔の性格は仏のように優しい人だったかもしれない。だが、それ以外の要因として私が感じたのはプライドの高さだ。
今、施設に入るような年齢の人たちは、現代よりも女性が働くことに対して過酷な環境だったことがほとんどである。それでも努力して高い立場に就いた経験は、間違いなく自分のステータスになっている。
そんな時代を生きてきた人がごろごろいるというわけだ。
言葉を選ばずに言うと、自分が偉いと思っているため(もちろん、実際に偉いとは思う)、お世話される側になっても、してもらって当たり前の感覚が抜けないのだ。
そんな人は大抵、介護士を顎で使い、「○○しなさい」「○○取ってこい」と言う。入れ歯を取った口から出る、フガフガ言葉を聞き取る難しさを全世界の人に知ってほしい。1回で聞けなかったら怒られる苦しみを味わえ。
介護の仕事を経験してから、私は常に思っている。
本当に長生きすることが幸せなのかと。
認知症で右も左もわからなくなった時、周囲の人は何とかサポートしようと必死に努力する。数年間頑張ってみるけれど、ついに世話し切れなくなって、高額の費用を出して施設に入れる。
私は介護士として、もちろんできることはした。
でも申し訳ないが、仕事をする中で、こんな状態で生きていて何の意味があるのかと思ってしまっている自分もいた。
歩くことはおろか、話すこともできず、尿や便も垂れ流し。
「あー」「うー」と話すけれど、もう赤ちゃんのように、年々成長していくこともない。ただ、日に日にできないことが増えていくのみ。
悲しいかな、そんな状態にある人の親族に限って、全くといっていいほど顔を見せに来ない。
殺せないから、お金を出して、仕方なく生かしてもらっている。
もしかしたら言えないだけで、そんな気持ちで施設を利用している人もいるのかもしれない。
人間の冒涜とも感じられる状態で生き続けるのは果たして幸せなのだろうか?
今、この国で合法的に死ねるのは死刑制度しかない。自殺は基本的に迷惑がかかるため、除外。だからといって、死刑制度の恩恵を受けるために人殺しを行うのも言語道断だ。
つまり、人に迷惑をかけずに死ぬ方法など、今の日本には存在しない。
だとしたら、もうこれしかないと思っている。
安楽死制度をどうか、お願いしたい。
私が生きている間じゃなくてもいいから。
難病で苦しみ続け、人生を早く終えたい人もいれば、もう何年も意識がない人もいる。
周囲が延命治療を望むのであれば、そうすればいい。
でも、本人の意思とは関係なしに延命させられたり、苦しいだけなのに自分で死を選ぶことが許されないために、身体も精神も削られ続けたりするのは、いったい誰が得をしているんだと思う。
わざわざ他国に出向いて、死を迎える日本人もいる。それが答えではないのだろうか。
何もできなくなり、意思疎通も図れなくなった状態で生き続ける。
寝たきりの状態で、自分の悪口を言われていることだけが理解できる。
同じことを何度も聞いて、介護士につっけんどんな態度を取られる。
いつまでいるんだろうね、なんて陰でぼやかれながら生きる。
正直、私は耐えられない。
今の制度では自ら死を選ぶ、大きな罪を犯す以外に自らの意思で死ぬ方法は存在しない。
日本の将来、日本の制度に期待するしかない。
これだけ長く書いて、結局、自分の力では何もできないのが現実。
でも、書くことで何か少しでも、誰か1人の気持ちでも、ほんのちょびっとだけ変えられたらいいな、と思う。
今回は、そう思って書きました。
思ってるだけで言わないのは、結局言わないのと一緒だからね。
あと、色々と書きましたがとりあえず炎上はしないでください。お願いします。