【全文公開!】大野裕|『リカバリーを目指す認知療法;重篤なメンタルヘルス状態からの再起』「まえがき」
「まずスタッフの認知に働きかける」
2019 年秋、Beck Institute Excellence Summit の前夜、娘のJudith Beck や本書の著者のPaul Grant やEllen Inverso を交えて「リカバリーを目指す認知療法」(以下、CT-R)について個人的に話しているときにDr. Beck はそう話していた。
重篤な精神疾患のために20 年、30 年と長期に入院している人たちを世話している病棟のスタッフは、「退院なんてどうせ無理だ」とあきらめている。スタッフのあきらめは入院している人たちに伝わり、先に進もうとする意欲を失わせていく。だから、まずそうしたスタッフのあきらめに働きかけ、さらに入院している人たちのあきらめに働きかけていくというDr. Beck の発想はじつに臨床的だ。
米国ではお互いがファーストネームで呼び合うのが普通だが、ベック研究所BeckInstitute のなかでAaron T. Beck だけは、親しみと尊敬を込めてみんながDr. Beck と呼んでいた。そのDr. Beck もすでに98 歳になっていたが、彼の言葉はなお生き生きとしていた。緑内障のためにほとんど目が見えず、車椅子の生活になっていたが、精神疾患に苦しむ人たちの助けになりたいというDr. Beck の思いが強く伝わってきた。身体的なハンディキャップを抱えながらも自分の思いを大切に生きるこのDr. Beck の姿勢こそが、リカバリーを体現していると私は考えた。
Dr. Beck が2021 年11 月1 日に100 歳で亡くなる2 日前まで取り組んでいたのが、本書で紹介されているCT-R だ。ベック研究所が有料で提供しているビデオ教材のなかで、Judith Beck は、「認知行動療法は発展し続けている」と言っている。そのビデオを視聴し、本書を読んで、私はとくに次の二つの意味でその通りだと感じた。
そのひとつは、重篤な精神症状のために20 年、30 年と入院している人に対しても認知行動療法の効果が示されるようになっていること、もうひとつは、精神症状などのチャレンジに目を向けるだけでなく、アスピレーションというその人の身近な夢や喜びに目を向け、適応モードと呼ばれる自分らしさの体験を重視していることである。さらに、モード理論を提唱することによって、これまでの患者モード中心の従来のアプローチから適応モードに目を向け活性化していくというアプローチへと発展させていったところは革命的であり、当事者の体験を最大限大切にするDr. Beck たちの臨床家としての姿勢に裏付けられたものである。
重篤な精神疾患のために長期に入院している人に対する心理社会的な支援の重要性は、入院している人の地域移行がうまく進んでいない米国ではとくに深刻な問題になっている。米国は精神疾患に対する理解が進んでいて誰もが気軽にカウンセリングを受けに行くという都市伝説のような話が日本で語られたりするが、決してそのようなことはない。
サイコセラピーを受けられるのは高額な料金を払える裕福な人たちで、多くの人は精神疾患に対して根強い偏見をもっている。そのために、精神科病院に入院していた人たちが退院できたとしても仕事に就くのは難しく、結局は路上生活を送らなくてはならなくなる。さらには生活に困って罪を犯すことになり、刑務所に入っている精神疾患を持つ人が増えたことが米国の精神医療の大きな問題になっている。
そうした状況を変えようと、例えばロサンゼルス市の当局者がイタリアのトリエステをモデルに改革に取り組むなど、米国では心ある医療関係者が努力を続けている。そのような状況のなかで精神疾患を持つ人たちに適切な精神医療を提供するために、CT-R のアプローチは大きな役割を果たすものと期待されている。それぞれの人が自分らしく生きていけるように手助けするこうしたアプローチが、わが国でも役に立つことはたしかであり、私たちが本書を翻訳することにしたのはそのためである。
CT-R のもうひとつの大きな特徴は、 アスピレーションaspirations、 チャレンジchallenges、そしてつながりconnection を軸に、適応モードの活性化に向けて治療を展開していく点にある。本書では、原語のニュアンスを損なわないようにアスピレーションとチャレンジをカタカナで表記することにしたが、これらの言葉の意味を中心に、本書の意義についてさらに解説していくことにしたい。
チャレンジという言葉は日本では挑戦という意味で使われることが多いが、英語圏では近年、課題や問題、困りごとという意味でもよく使われるようになっている。もう少し詳しく説明すると、チャレンジという言葉は、困った問題というネガティブな意味だけでなく、挑戦して乗り越えていく課題というポジティブなニュアンスを含んでいる。そうしたことからも、本書で精神症状や人間関係の困りごとなどにチャレンジという言葉が使われているところに、それぞれの人がもつ力を信じ、その人らしさを大切にしようとするDr. Beck たちの強い思いが感じられる。
そうした人間的なまなざしは、patient という言葉を使わずindividual という用語が本書を通して使われていることからもわかる。これこそが認知行動療法の基本的なアプローチである認知行動変容アプローチが共通して大切にしている姿勢であり、パラノイアの裏にある脆弱性の感覚や誇大妄想の裏にある不全感にしっかりと目を向ける姿勢は、抑うつや不安の背景にある認知に目を向けるのと同じである。
陰性症状に対してやりがいや喜びを感じる行動を生活に取り入れて、適応モードと呼ばれる自分らしさを引き出していくアプローチは、抑うつに対する行動活性化と共通している。幻聴にとらわれない工夫をして幻聴に支配されないこころの状態を作るアプローチは、抑うつや不安、慢性痛、目まい、耳鳴などの症状にとらわれずに自分らしさを保つアプローチと共通している。
こうしたことからもわかるように、認知行動変容アプローチは、自分らしい認知と行動を大切にしながら人生の主役を症状から自分に取り戻すという点では診断横断的である。一方、個々のチャレンジに特徴的な認知や行動に目を向けるという点では診断特異的である。
精神疾患に苦しんでいる人たちがこうした自分らしい生き方をするために重要になるのが、本書で最も大切なコンセプトであるアスピレーションである。日本語でアスピレーションというと壮大な夢や希望を意味しているかのように受け止められがちだが、本書を読み進めていくとわかるように、誰もが日常のなかでこころから大切にしている思いであり、自分らしく生きていくための身近な夢やあこがれである。
また、aspirations と複数形で表現されていることからもわかるように、人のためになることをする、地域活動に参加する、親しい人と話す機会を持つ、他の人と一緒に好きな音楽を楽しんだり身体を動かしたりするなど、私たち誰もがいくつもの夢やあこがれを持っている。悩んでいる人は、こうした複数の身近なアスピレーションを意識することで、エンパワーされ、目の前のチャレンジに対処し、将来に向かって生きていく力が生まれてくる。
さらに言えば、アスピレーションは英語ではチームビルディングの方向性を示す言葉として一般に使われる言葉でもあり、企業等でプロジェクトチームのみんなが力を合わせて先に進んでいこうとする前向きの意味を含んでいる。それは、長期に入院している人たちだけでなく、その人たちに寄り添い一緒に進んでいくスタッフや家族、さらには友人や知人まで視野に入れた、極めて重要な概念であると、私は考えている。
Dr. Beck がこのようにアスピレーションに注目するようになった背景には、ポジティブ・サイコロジーを提唱したMartin Seligman との交流も影響していたのだろうと、私は推測している。ある年のBeck Institute Excellence Summit にポジティブ精神医学を提唱しているDilip Jeste が招待されていたことからも、Dr. Beck がポジティブサイコロジーやポジティブ精神医学に強い関心を持っていたことがわかる。
同じフィラデルフィアに住むDr. Beck とMartin Seligman は仲が良くて、晩年、毎月1回会って話し合っていた。2020 年7 月18 日には近しい人たちがズームで集まってDr. Beckの100 歳の誕生会が開かれたが、それはMartin Seligman の発案だったと聞いている。そのMartin Seligman から個人的に聞いた話では、今に目を向けるだけでは動物の域を出ていなくて、人間の人間らしさは将来を考えられるところにあると、二人で話し合っていたという。
そのような未来性思考への着目がアスピレーションを視野に入れて適応モードを活性化していくCT-R のなかで生かされている。認知行動療法は考えを変えるアプローチではなく、体験を通して考えが変わっていくアプローチであると私は考えている。自ら体験するなかで現在に目を向け、将来を見通すことができれば、考えは自然に変わるからである。
もちろんそのときに、信頼できる人の存在は大切だ。私は、セルフケアは一人ではできないと考えているが、本書でも様々な場面で、connection、social、communication といった様々な言葉を使って、人間的な「つながり」の大切さを繰り返し指摘している。孤立はこころを疲弊させる。一方、こころが通い合う関係を実感できれば、孤立して疲弊したこころは癒され、前向きに進むエネルギーが生まれてくる。
このように考えると、本書で紹介されているアスピレーションやチャレンジ、つながりなどの概念は、誰にとっても大切な概念だとわかる。精神症状の有無にかかわらず、誰でも何らかのハンディキャップを持っている。そのなかで自分らしく生きていくことこそがリカバリーの本質であり、自分らしくウェルビーイングに生きていくために大切な考え方だ。だからこそ、最近の認知行動療法は困りごとや問題だけでなく達成感や喜びをアジェンダとして取り上げるようになっていて、それをJudith Beck は認知行動療法の新たな発展と呼んだのだと、私は考えている。
数年前、John Rush と、Dr. Beck 主催のパーティからホテルに歩いて帰っていたときのことを思い出す。薬物療法で症状を軽減することはできるが、自分らしく生きていけるように手助けするのはCBT だと言ったのがこころに残っている。彼は、Dr. Beck が初めて認知行動療法の効果についてランダム化比較試験を実施したときに、ペンシルベニア大学精神科のチーフレジデントとしてDr. Beck の背中を押し、一緒に研究を進めた臨床家であり研究者でもある。後に、うつ病の検証型治療継続アルゴリズム(STAR*D)と呼ばれる大型研究で世界的に知られることになったJohn Rush らしい言葉だが、そうした認知行動療法の集大成と言えるのがCT-R の考え方だと、私は考えている。
このように本書は、精神症状の程度にかかわらず、さらには症状の有無にかかわらず、誰もが自分の人生の主役になって自分らしくウェルビーイングな人生を送れるように支援する進化した認知行動療法の姿を伝える内容にもなっている。ぜひ、多くの人に読んでいただき、様々な場面で活用していただきたいと願っている。
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