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【緊急掲載】戦争という完全な悪に対峙する──ウクライナ侵攻に寄せて|ドミートリー・ブィコフ/奈倉有里編訳

2月24日、ロシア軍がウクライナを侵攻というニュースに、ロシア全土から悲しみと怒りと自責と謝罪の織り交ざった声が響いた。
2月25日、ロシアで広く尊敬されている作家・文芸批評家のドミートリー・ブィコフがラジオ局〈モスクワのこだま〉の持ち番組で、現在の状況を2時間近くにわたり語った。国を主語にものごとを考えることの危険を訴える、示唆に富んだ内容だった。その一部を、急遽ロシア文学者の奈倉有里さんに翻訳紹介していただいた。ヘッダー画像はウクライナ出身の画家アルヒープ・クインジによる作品「朝のドニエプル川」。(編集部)

1.形而上学的な憎悪にかられている

今日の放送をしないで済むのなら、高い代償を払ってでもそうしたかった。自分の母親が亡くなった日と同じくらいの悲しみを抱え、それでも今日、逃げ出すことはできなかった。私たちが生きているあいだに、またもや戦争が起きた。

ロシアがどうやってこの戦争から抜け出すのか、そのときどうなっているのか、私にはわからない。おそらく、とても長い時間がかかるだろう。ロシアにとってこの戦争が、自国民との戦争にもなることは間違いない。すでにモスクワでも平和を訴えた人が1000人以上逮捕され、わずかに生き延びていた報道機関も制圧され、「戦争に反対する可能性がある」だけの人々の自宅にまで警察が押しかけて逮捕しようとしている。この番組によく出演してくれている詩人のマリーナ・ボロヂツカヤの家にも警察が脅しをかけにきた。

ロシアの政権や警察が「国家の敵」としているのはそういう人々だ。かつてワシーリー・アクショーノフ〔1932-2009、作家〕が、イリーナ・ラトゥシンスカヤ〔1954-2017、ウクライナ出身の詩人。82年に反ソ的作品を理由に逮捕され投獄〕の写真を用いて「詩を描いている女の子だ、ソ連はこんな子を敵と見做しているのだ」と嘆いた。しかしいまのロシア政府はブレジネフ政権と比較にもならないほど、女だろうと子供だろうと自民族だろうと他民族だろうとどんな相手も敵に仕立てあげようとしている。周知のようにプーチンはなにか超越的というか、形而上学的といってもいいほどの憎悪にかられている。これは恐ろしいことだが、最も恐ろしいのはロシアがこの先長い時間をかけてその道を行こうとしていることだ。

2.これは私たちを蝕んでいる癌だ

ずいぶん前に私は、「かつて世界に憧れられたような、私たちが目指していたロシアはもう跡形もなくなってしまった」と書いた。もはやロシアは『ドクトル・ジヴァゴ』〔ボリス・パステルナーク〕のラーラのイメージではない。憎悪にとりつかれ恨みを晴らそうとしている恐ろしいバーバ・ヤガー〔妖婆〕だと。世界からみれば今後ウクライナは神聖な存在となり、ウクライナのしたことならなにもかも批判できないような世論も生まれるだろう。

今後、戦争に反対の声をあげる人がいかに弾圧されるか……。私は決しておどかすようなことは言いたくない。だがそもそもロシアの人々は全員が人質になったようなものだ。

それでも、ウクライナの友人たちに呼び掛けずにはいられない。キエフ〔キーウ〕にはよく行くし、最後に行ったのは2月の始めだ。キエフには友人だけでなく、私が尊敬する人々、意見を求め、その人たちに気に入られたいと思うような人々がいる。言葉の選択を恐れずに語り合える貴重な人々がいる。いまや私たちはロシアにいると、どんなに自由にものを言うように見える人であっても、やはり国や上の顔色を伺い、「リベラル・ファシスト」(なんと不可解な語結合だろう)の烙印を押されないよう気を使っている。その大切なキエフの、私の愛する、尊敬する友人たちがいま、みんな地下避難所にいて、爆撃に怯え、これからロシア政府がキエフを占領したら、「リベラル・ファシスト政府」に協力した人々を公開処刑にする可能性さえあるのではないかと恐れている。実際、そう言われて続けてきたのだ──キエフの秩序を取り戻すとか、マイダンを支持した人々を晒し者にするとか。権力側の「ラディカル・ファシスト」たち(いまやほんとうにこの言葉に見合う存在になってしまった)はそう言っていたのだ。

私たちはいま恐怖と絶望のさなかにある。ウクライナだけではなく、私たちの幸福も人生もすべてが踏みにじられていく。これは私たちを蝕んでいる癌だ。

3.イデオロギー抜きで成立したファシズム

恐ろしい展開が頭に浮かぶ。もしウクライナ側も軍を組織し、こうして裏付けのできてしまった「ロシア嫌悪」に基づいて戦争を展開し、ロシアとのすべての関係を断ち、密接に絡んだ根を断とうとし、今後の選挙でその勢力が勝ち続けるとしたら──。

ロシア政府で権力を握った人間は、まさかこんなふうに世界中の人間を踏み躙り、すべての意味のあるものが意味をなくし──人を、神の探求も対話も芸術も、あらゆる価値あるものに取り組めない状態にし、ただ恐怖と憎しみに震える獣に変えてしまうような、そんな状態にすることが目的だったというのか。ほんとうにこんなことが目的なのか?! だがそんなことが可能になってしまったのは、権力側の人間があらゆる市民を、暴力を使えばどんなことでも言うことを聞かせられる存在だと思っているからでもある。

いま「こうするしかなかった」と言っている人々、「ロシアは敵に囲まれNATOに侵略されそうになっていたから戦争は避けられなかった」と言っている人々が、呪われるであろうことは間違いない。しかしどんなに呪ってもなにも救われないし、なにももたらされない。

未来の学術界はこの事象をどう扱うことになるのだろう──なにしろファシズムが、一切のイデオロギー抜きで成立するものだということが明らかになったのだ。たんなるルサンチマンひとつで成立してしまうのだ。つまりファシズムとは、思想の生んだ現象でも文化の生んだ現象でもなく、心理的現象、あるいは心の病気のような現象だったのだ。それは感情であり、その感情に身を委ねることを心地よく思う人がいる。人間の本性として、巨悪に加担し、なにをやっても許されるという興奮状態に陥り、威力を見せつけたいという感情がある。人を酔わせる、怒りの感情だ。

私は今日もちろん、戦争に反対する人々に、ひとつになろうと呼びかけたいと思っている。ロシアにいる人にも、世界中の人にも。けれども難しい思いだ。私たちは超え難い壁に阻まれ、多くの人々が互いにさんざん口論しつくした、その果ての世界にいる。だから「戦争反対」というこの世界基準の呼びかけのもとでさえ、人々がひとつになれるのかどうか不安でもある。

4.全世界にいじめられているかのような口調

これからのことについては、いまのところ予測できるのは目前の明白なことだけだ。

これは大惨事となり、ロシアは以前の姿には戻れないだろう。歴史を逆行させ権力を維持しようという試みは必ず失敗する。おそらく権力側はウクライナに傀儡政府をたてようとするだろうし、その計画は彼らのお気に入りのシンボルにのっとって進めるつもりだ──つまり2月23日〔祖国防衛の日〕に始め、5月8日〔戦勝記念日〕までには終える計画だろう。そしてキエフの中央通りで戦勝パレードをするつもりなのだろう。その計画通りに進むかどうかはわからない。こんにちのロシアとヒトラーのドイツの類似性はすでに多くの人が指摘しているが、充分に説得力がある。グライヴィッツのときのヒトラーの演説と、先日のプーチンの演説は、語り口といい構成といい、驚くほどよく似ている。なかでも最も重要な共通点は、レマルクが『リスボンの夜』で描いた、全世界にいじめられてでもいるかのような、あの口調だ。「だって、我々はこんなにがんばってたのに」と……ああ、なんて恥ずかしいことだろう。

私たちは予想外のことが起きたかのように驚いている。私もまた、こんな戦争が起きてほしくないという一縷の希望にすがっていた。けれどもいまではその希望を恥ずかしく思う。何者かが「ガア」とアヒルのように鳴いたら、その正体はやはりアヒルなのだ。似ているのではなく、そのものなのだ。プーチン政権のやってきたことは、おそろしいほどすべてが、ここに向かっていた。憎悪の蔓延してきたここ8年のことだけではない、20年かけてここまで進んできた。

これから、私たちはこの悪夢とどう戦ったらよいのだろう。アフガニスタン侵攻〔1979-89〕の傷も癒えていないうちに、ウクライナに攻め入ったなどという事実を抱えて、どうやって生きていくのだろう。

5.完全な悪に対峙する──リスナーからの質問に答えて

▼ではソ連のチェコスロヴァキア侵攻はどうなのか、あるいは、アメリカは広島に原爆を落としたじゃないか。

―― アメリカとロシアのどちらが酷いか競争してはいけない。他国をみるなら、より良いと思うような国を見つけたときに、その「良さ」を競えばいい。もちろん私はアメリカが広島に原爆を落としたのはアメリカの功績ではなく恥だと考えている。ただしアメリカはベトナムについてもインドシナについても幾度となく自らの行いを悔いてきたし、ベトナム戦争に反対した人たちがその後、国民からの支持を集めた。ただし元ベトナム帰還兵でベトナム戦争を批判した有名な映画監督のオリバー・ストーンはいまどういうわけかプーチンを理想化している。人が過ちに陥る過程はさまざまだ。

だがともかくアメリカでは、たとえば大統領がひどい過ちを犯したら、そのあとは選挙で別の人間を選ぶなどして、少なくともその問題と向き合おうとしてきた。なぜかロシアではそういったことが起こらない。

▼コロナ禍で私たちはみんな、ボッカチオの『デカメロン』やカミュの『ペスト』を読み、救われてきた。いま心を落ち着けるために読むべき本はなにか。

―― 本は、心を落ち着けるためだけに読むものではない。無理に落ち着いたり心配するのをやめたりするべきだとは思わない。ただし、恐怖や狂気に陥るのを防ぐために、なにかはしたほうがいい。ブラート・オクジャワ〔1924-97、吟遊詩人〕が言っていただろう――「私は皿洗いをするとき、いまできる限りのぶんだけ、世界に調和をもたらしている。私の詩で世界に調和をもたらせるとは信じていないが、皿を洗えばそのぶんだけ乱雑さが消えて調和が増える」と。

なにを読んだらいいかというなら、ウクライナ文学を読もう。「ウクライナはロシア嫌悪によって団結しているだけの寄せ集めにすぎない」などという戯言は、ものを考える人間ならとうてい考えられるわけもないでっちあげだ。ミハイロ・コチュビンスキー〔1864-1913〕を読み、レーシャ・ウクラインカ〔1871-1913〕を読もう。セルゲイ・パラジャーノフ〔1924-1990〕の映画を、『忘れられた祖先の影』〔邦題『火の馬』、1964〕を観よう。オデッサ映画スタジオの映画を観よう。

 トーマス・マンの言葉を思い出す――「完全なる悪の唯一のいいところは、その悪を前にすると、普段は善を分断しているかのように思われる矛盾の壁が、不思議と消えていくところだ」。私たちは実際、完全なる悪に対峙しているときだけ、和解できるものなのかもしれない。そして戦争とは完全な悪だ。私たちはみんな、よくわかっている。ロシアは、破滅に向かい進み始めた。ただひとつ願えることがあるのなら、ロシアがこの破滅から脱するとき、長い夢から覚めて悔い改め、変わっていくことだ。そこだけに希望がある。そして私はそれを信じる。私は戦争に反対する。この恥ずべき戦争に反対する。兄弟であるウクライナの平和を願う――これからも兄弟でいられるだろうか、私にはわからない。けれども私たちと彼らはすぐ近くで生き続け、ともにこの危機を脱しよう。

*  *  *

ドミートリー・リヴォーヴィチ・ブィコフは、1967年モスクワ生まれの作家、詩人、批評家。マクシム・ゴーリキー、ヴラジーミル・マヤコフスキー、ボリス・パステルナークらの評伝でも知られる(邦訳『ゴーリキーは存在したのか?』斎藤徹訳、作品社、2016)。パステルナークの評伝は2006年に国民的ベストセラー賞とボリシャーヤ・クニーガ賞を受賞した。プーチン政権に対しては批判的な見解を示し続けており、思想犯の釈放を求める運動などにも参加してきた。

2021年6月9日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。ブィコフもアレクセイ・ナヴァーリヌィと同じように2019年の4月に連邦保安局から毒を盛られていた事実が、元連邦保安局員による証言をもとに明るみに出たのだ。これを受けてブィコフはラジオで「おそらく活動不能に陥らせたかったのではないか」「実際、いまでも完全に回復したのかどうか、自分でもよくわからない」と、いまだに体に不調が残っていることを語っている。

ロシアの人々は長い年月のあいだ、プーチン政権を批判すれば、毒を盛られ、暗殺され、拘束され、暴力を受け、職を追われるという弾圧のもとに生きてきた。今回も「戦争反対」に対する弾圧は日毎に強まり、「戦争」という言葉自体が禁止されるという不条理劇と悲劇の混合のような状態が起きている。

サーシャ・フィリペンコが『理不尽ゲーム』(集英社、2021)でベラルーシ独裁政権の圧政を描いたとき、ロシアの人々は「これは私たちの話でもある」と捉えた。そしていまロシアで反戦デモに対して加えられている暴力的な弾圧に、一昨年の不正なベラルーシ大統領選挙後に起きた大規模な抗議運動とそれへの迫害が二重写しとなり、「2020年のベラルーシの再来だ」といわれている。

そのようななかでも、一般の人々の声、文化人の声は次々に表明されてきている。これまで政府を批判できない立場にいた人々も声をあげている。

私たちは戦争に反対するとともに、反戦の声をあげるロシアの人々にもウクライナの人々にも敬意を持ち、耳を傾けよう。

奈倉有里(なぐら・ゆり)
1982年東京生まれ。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(未知谷)、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(以上新潮クレスト・ブックス)、ボリス・アクーニン『トルコ捨駒スパイ事件』(岩波書店)、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』(集英社)など。

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